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"Korva"とはフィンランド語で「耳」という意味。なぜかスピーカーのことを考えてると幸せ。よい音とは何か、そして理想のスピーカーとは何かを日々考え追求しています。

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「西の魔女が死んだ」を読んでスピリチュアリズムについて考えたこと
Korva は、梨木香歩の『西の魔女が死んだ』という物語が好きで、
時々 思い出しては、読み返しています。

nishinomajogashinda


この本は、いわゆるスピリチュアル本ではないのですが、
スピリチュアリズムなどの、見えない事柄、神秘的な事柄を扱う上で、
非常に大切なことが描かれているように感じます。
スピリチュアリズムが商業化すると、
真実の追究よりも、読者の需要に応えることが至上命題になるので、
スピリチュアリズムの研究においては、
スピリチュアル本でないことが重要になることも、あるかもしれません。

Korva が、スピリチュアリズムについて書くと、
いつも、批判的なことが少々多くなってしまいますが、
これは、スピリチュアリズムが好きな自分に対する、
戒めのようなものでもあります。


主人公の「まい」が不登校になり、
母方の祖母のところで休養することになります。
このおばあちゃんは、イギリスの魔女の血筋で、
まいは、おばあちゃんの所にいる間、
成り行きから、魔女修行を受けることになります。
魔女修行といっても、魔法のことを習ったりするということはなく、
魔女に必要な心構えのようなものであったり、
日常生活を規律正しく送ることであったりしますが、
おばあちゃんの所を去った後も、このときの経験が、
まいの心に影響を与え続けるのです。
そして、このときに習ったことが、その時のまいに欠けていたもので、
その後のまいの成長に、最も必要なことだったのです。

ちなみに、この魔女のおばあちゃんは、
Korva が理想とする人間像の一つです。

まいのおばあちゃんは、非常に保守的な考え方をするタイプで、
事実であると確かめられたことに基づいて合理的に考えようとします。
そして、保守的な人が一般的にそうであるように、
心身の鍛錬によって成長し変わっていくことを重視しています。
一般的な意味で使われた「成長」という言葉に、まいは反感を覚えるのですが、
そこに、その時のまいの価値観の一端が現れています。

このおばあちゃんが、スピリチュアルな事柄に深く関わっていながら、
最後まで立派な人でいられたのは、こういう保守的な傾向があったからだと思います。
この場合の保守性というのは、外界や他者に対して保守的ということで、
他者や外界のありのままを認めて尊重することを意味しています。
おばあちゃんは、まいの存在に感謝し、まいのありのままを認め、深く愛しており、
まいの良いところを臆面も無く褒めるようなところがあります。
そして、まいもその様なおばあちゃんが大好きです。
他者や外界に対して、愛に基づく考え方を採用する場合、
ありのままの他者や外界を受け入れ理解し、その良い面を見ようという態度になるため、
結果的に、保守的な傾向が強くなってしまうのだと考えられます。
それに対して、愛の無さは、完全性を求めます。

そして、保守性には伝統的なものを大切にすることも、もちろん含まれます。
おばあちゃんは、もともとはイギリス人ですが、
その土地に根付いた生き方をしたいと思っており、
日本文化を尊重し、日本文化と調和して生きています。
まいのお父さんが、おばあちゃんがイギリス人であることを考慮して、
お土産として、洋風の和菓子を持ってくるのですが、
おばあちゃんは、その土地に深く根ざした本物が良かったと思いつつも、
まいのお父さんの気持ちを尊重して、
それが神聖なものであるかのように、黙々と食べる場面があります。
そして、その様な精神的な態度というのは素敵だなと、Korva は感じます。

スピリチュアルな人は、保守的ではない(左派的な)人が多いのですが、
スピリチュアルな事柄を扱う上では、
保守的な傾向というのが非常に重要になると感じます。
というのは、保守的な人は「常識」を重んじますが、
常識的な思想や価値観というのは、比較的、客観的事実や、
多くの人が経験したり確認できることに基づいているので、
根拠や合理性、妥当性がありますし、
また、道徳的、倫理的なことにおいても、
保守的な人は、是々非々な考え方をする傾向がありますが、
それに対して、左派的な人は、その反対の傾向を持っているからです。

左派的な思想というのは、
嫉妬や憎悪などのネガティブな感情を土台としているので、
ネガティブなものの正当化という基本的な性質がありますし、
一般的な価値観において成長することを目指すよりも、
その一般的な価値観の破壊の方を目指すので、
物質的にも精神的にも、下方平準化の方向性を持っています。
上位者と下位者との差が縮まる代わりに、全体のレベルが下降していきます。
そして、左派的な人が求める「結果的な平等」を実現しようとした場合、
上方平準化は不可能なので、下方平準化が実現することになります。
左派的な人は、それを全く望んではいないと思いますが、
一部の特権階級と下方平準化された民衆の世界というのが左派的な世界です。

スピリチュアルな傾向に左派的な傾向が加わると、
かなりの確率で、人間性に問題が生じてくるというのは、
長くスピリチュアリストを観察していると、容易に判ります。
スピリチュアリズムは、一般的な常識に囚われることを嫌うので、
(ただし、スピリチュアル界の常識は絶対的なものとしがち)
左派的な、ネガティブなものを正当化する性質が加わると、
非常識が常識化し、例外が一般化し、ネガティブな感情が一見 美しい思想に偽装され、
比較的良いものの悪や、比較的悪いものの善が絶対化し、
比較的優れたものの欠点や、比較的劣ったものの長所が過大評価されたり、
段々とそういう傾向が、強化されてくるのです。
そして、結果的に、思想や価値観、知性や人間性に問題が生じてくるのですが、
客観的事実に基づく世界より、そうではない世界の方が、
同調圧力と、異物排除の圧力は強まるので、
その様な異常な考え方に反する意見は排除され、
信じたいものだけを信じ、見たいものだけを見て、
生きていくようになります。

スピリチュアリストや左派は、
人々の思想や価値観、常識とされるものを変えようとしますが、
思想や価値観を変えることには、彼らが考えるほどの重要性は無いかもしれません。
例えば、スポーツについて考えてみると、
前提として、ルール自体が公正でなければなりませんが、
ルールの内容がどのようなものであっても、
全ての選手に等しく適用されていれば、公正な試合だと言えます。
しかし、ルールーをどの様に変更しても、ある人には厳しく適用するが、
別の人にはそうしないということであれば、公正な試合とは言えません。
つまり、ルールの内容よりも、ルールの適用のされ方のほうが重要なわけです。
同じように、価値観や思想の内容がどのようなものであっても、
それが全ての人に、等しく適用されていれば、公正な世界と言えますが、
等しく適用されていなければ、公正な世界とはいえません。
目指すべきは、思想や価値観の変更よりも、公正さの実現の方だと思いますが、
スピリチュアリストや左派というのは、思想や価値観の変更と、
意図していなくても、公正さの廃止を目指しているように見えます。
既存のルールには従わなくてよいという思いが生じることから、
自然と公正さを欠くように見えるのかもしれません。

スピリチュアリズムでは、「愛」というものが一般的に強調されますが、
なぜか、スピチュアリストは、段々と左派的な傾向が強くなりがちです。
それは、理想的な人々が暮らす理想的な社会というものが、
(誰も見たことがありませんが) どこかに実在していたり、
実現可能だと信じていたりすることが原因かもしれません。
そういうものを信じると、現実の人々や社会に対して、
否定的な観念や感情を持つことになるので、
思想や価値観が、徐々に左派的になるのかもしれませんが、
これは、他者から見ると、性格が悪くなったように見えたり、
人間性が低下したように見えたりするという問題もあります。
スピリチュアリズムを勉強することで、
主観的には精神性が向上したつもりでも、
客観的には、愛を失い、精神性が低下しているわけです。
一見すると美しく見えるような思想でも、それを信じると、
結果的に、精神性や人間性が低下するものもあるので、
その思想が、人の精神にどのような影響を与えるのかを、
じっくりと観察する必要があると思います。

「じゃあ、魔女って生きているうちから死ぬ練習をしているようなもの?」
「そうですね。十分に生きるために、死ぬ練習をしているわけですね」
まいはしばらく考え込んだ。
「それじゃあ、身体を持っていることって、あんまりいいことないみたい。
なんだか、苦しむために身体ってあるみたい」
まいは、無力にも物体と化して転がっていた、バラバラの鶏のことを思っていた。
「あの鶏にはかわいそうなことをしましたね」
おばあちゃんもしんみりと言った。
なぜおばあちゃんはわたしの考えていることが分ったのだろう、といぶかったが、
そんなことを詮索していてはきりがないので、
「もしああいう目に遭うとしても、身体をもつ必要があるの?」
と、責めるようにきいた。
「あの鶏にはあの鶏の事情があったのでしょう。
魂は身体を持つことによってしか物事を経験できないし、
体験によってしか、魂は成長できないんですよ。
ですから、この世に生をうけるっていうのは
魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです。
成長の機会が与えられたのですから」


おばあちゃんは、魂は肉体を持つことによって、
初めて「経験」することが可能になり、
魂は、その経験によってしか成長することはできないと考えていて、
肉体を通した経験というものを重視しています。
人が経験できることには、可能なことと不可能なことがあり、
経験を通して人はそれを学ぶことができますが、
想像の世界では、あらゆることが可能なので、
想像に基づいた思想や価値観というのは、
実際には、実現不可能なものが多く含まれていると思います。
実現不能なことを実現可能だと信じたり、
または、解決不能なことを解決可能だと信じたり、
解決する必要のないことを解決すべきだと信じることで、
社会にとって、トラブル・メーカーになるスピリチュアリストもいます。

「座禅を組んだり、瞑想したりするの?」
おばあちゃんは、またにやっとして、
「それはまだちょっと早いですね。
いきなりバットを振って肩を脱臼するようなものです」
まいはがっかりした。座禅も瞑想もまだ早いのだったら、
超能力で未来を予想したり、呪文を唱えて何かに変身するなんてことは、
もう気が遠くなるくらい先のことではないか。
「いいですか、まい」
おばあちゃんはわざと冗談めかして、声をひそめて言った。
「この世には、悪魔がうようよしています。
瞑想などで意識が朦朧となった、しかも精神力の弱い人間を乗っ取ろうと、
いつでも目を光らせているのですよ」
半分冗談だと思いながらも、まいは背筋がゾクッとした。
「おばあちゃん、悪魔って本当にいるの?」
と、おそるおそる訊いた。きっと否定してくれるものと思いながら。
でもおばあちゃんからの応えは簡単明瞭だった。
「います」
まいは一瞬息をのんだ。
おばあちゃんはまたにやりとして、
「でも、精神さえ鍛えれば大丈夫」


おばあちゃんは、見えない世界における「悪魔」の存在を想定しています。
これも、見えない世界の事柄を扱う上で非常に重要なことだと思います。
見えない世界において、悪意のある存在を想定しない場合は、
見えない世界の事柄に対して、事実上、判断力を放棄することになるからです。
もちろん、判断力を放棄すると、一々考えなくてもよくなるので、
精神的に楽になるというメリットがありますが、その代償が、
人間の精神にとって、とても貴重なものである判断力の放棄というわけです。

「おばあちゃんの言うとおり、悪魔が本当にいるとして、
そんな簡単なことで、悪魔が本当に防げるの?」
「本当に、大丈夫。悪魔を防ぐためにも、魔女になるためにも、
いちばん大切なのは、意思の力。
自分で決める力、自分で決めたことをやり遂げる力です。
その力が強くなれば、悪魔もそう簡単にはとりつきませんよ。
まいは、そんな簡単なことっていいますけれど、そういう簡単なことが、
まいにとってはいちばん難しいことではないかしら」


スピリチュアルな世界では、自分が決めたことではなく、
人間を超える存在(自称ですが)の言うことが、絶対的な真実だと見なされますし、
その真実を信じない人は、精神的な価値の低い人だと見なされますが、
そういうスピリチュアリストは、自分の意思と判断力を放棄した、
単なる権威主義者と言えるかもしれません。

人間が人間を超えるものに従わなければならないのなら、
その人間を超えるものも、彼らを超えるものに従わなければならず、
彼らには自決権というものは無いということになり、
彼ら独自の思想や価値観にも意味が無いということにもなります。

自称 神は悪魔かも知れず、自称 高級霊は低級霊かも知れず、
自称 進化した宇宙人は退化した宇宙人かも知れませんし、
ただの人間が、人間を越える存在によって、
自分の意見を権威付けるために言っているだけの可能性も、もちろんあります。
先進国の住民が、途上国の住民を自分たちより劣った存在と考えて、
善意から自分たちの思想や価値観を教えてあげたとしても、
それが常に正しいとは限らないように、
そういう存在の言うことも、そういう性質のものである可能性もあります。
途上国のある住民が、先進国の常識を学び、
自分は他の同国人より上等な人間になったつもりで、
他の同国人を見下したりしている光景というのは滑稽かもしれません。

この物語に、悪役というか、まいの嫌悪の対象、
まいの小さな世界における、絶対悪のような存在として
「ゲンジさん」という人物が登場します。
ゲンジさんは、粗野な男なので、一般的には、
思春期の女の子には嫌われそうなタイプですが、
まいへの最初の印象が悪かったので、
ゲンジさんは、まいの投影の対象になり、
段々と嫌われ、結果的に、激しく憎悪されるようになります。
しかし、この最初の不幸な一件も、実は、
ゲンジさんがおばあちゃんのことを心配していたから起こった、
ということが示唆されているのですが・・・

読者は、主人公のまいに感情移入しながら読むので、
ゲンジさんを徐々に憎悪するようになるまいの感情は、
正当でリアリティーのあるもののように感じるのですが、
憎悪するようになる理由となるような、客観的な事実は、単に、
ゲンジさんから 「本当のことを言われた」 ことだけだったりします。
ゲンジさんも、人(たぶん兄弟)から同じことを言われたとき、
ただ笑って済ませた(むしろ場が和んだ)ことから、
まいに、それを言ったとき、
悪意から言ったのではないということが判るのですが、
(人は悪意を持って言ったことを自分が言われると普通は怒る)
まいは既に、ゲンジさんを投影の対象にしているため、
ゲンジさんを悪く解釈することしかできなくなっています。
スピリチュアルな世界でも、特に何も悪いことをしていないような人が、
悪魔化したり、絶対悪化するようなことは、
特に珍しい現象ではなく、ごく普通の現象ですし、
それに異を唱える人も、同様に悪魔化されます。
善悪が問題となる場においては、違う意見は善に逆らうものと見なされるので、
単に個性の違いとして尊重されることはないようです。

客観的には、ゲンジさんがおばあちゃんを助けているような場面でも、
助けを必要とする状況に陥った、そもそもの原因はゲンジさんであるというのが、
まいの想像することで、しかも、それが事実であると、まいは「確信」しているわけです。
つまり、まいの世界では、ゲンジさんが悪いということは自明のことであって、
ゲンジさんは、ゲンジさんである限り、何をしても憎まれるわけです。

まいが、ゲンジさんをナメクジになぞらえて、
悪意に満ちた、醜悪な妄想を巡らす場面があります。
これは明らかに、客観的な事実に反しているので、
まいの単なる妄想であると簡単に判断できるのですが、
このことによって、まいの想像はニュートラルなものではなく、
悪意に基づく偏ったものであるということが判りますし、
その場面以外での、まいのゲンジさんについての想像が、
それと同じような、悪意に基づく妄想にすぎない、
という可能性も生じてしまいます。

実は、まいの想像が事実であるかどうかを、
簡単に確認できる場面(筍の一件)もあるのですが、
なぜか、まいはそれをしないことから、
まいにとっては、それが事実かどうかが重要なのではなく、
自分の感情を正当化し、自分の想像の一貫性を保つ方が、
より重要なのではないかと思われます。
また、この一件で、まいは、自分が悪人だと見なす人は、
不快にしたり傷つけたりしても良いと、無意識的に考えているらしい、
ということも読み取ることができます。

しかし、まいの不登校のそもそもの原因は、
まいがゲンジさんにしていることと同じようなことを、
まいのクラスメイトにされるようになったことなのです。
つまり、特に何も悪いことをしていないにもかかわらず、
クラスメイトの共通の「敵」に認定されてしまったことなのです。
まいのように、自分が「感じること」を重んじ過ぎる人というのは、
同じ行為でも、自分がすれば善、嫌いな人がすれば悪ということになります。
「何をするか」が問題なのではなく、「誰がするか」が問題になるわけです。

まいは、おばあちゃんのところを去った後、転校することになるのですが、
転校先の学校で新しくできた友達に対して、
転校前の学校で、自分が散々されてきたことと同じことをしてしまい、
少し反省する場面があります。
転校前の学校で身に付いた負の遺産だと、まいは人のせいにするのですが、
反省するだけ、かなり成長しているのが判ります。
これは別に、まいの性格が悪いということでは全くなく、
人というのは、えてして、そういうものだと思います。
同じことでも、自分がする場合は、正当なものだと「感じる」ものです。
そしてこれは、「感じる」ことを大切にするスピリチュアリストたちが一般的に、
ややもすると、ダブル・スタンダードを徹底させようとしているようにも見える、
原因の一つだろうと思います。

「でも、まいはそれを見ていたわけではないでしょう」
「見なくても分る」
おばあちゃんはため息をついた。
「まい、ちょっとそこへお座りなさい」
まいはテーブルについた。おばあちゃんも向かいに座った。
「いいですか。これは魔女修行でいちばん大事なレッスンの一つです。
魔女は自分の直観を大事にしなければなりません。
でも、その直観に取り付かれてはなりません。
そうなると、それはもう、激しい思い込み妄想となって、
その人自身を支配してしまうのです。
直観は直観として、心のどこかにしまっておきなさい。
そのうち、それが真実であるかどうかが分るときがくるでしょう。
そして、そういう経験を幾度となくするうちに、
本当の直観を受けたときの感じを体得するでしょう」
「でも・・・・・・」
「まいは自分の思っていることがたぶん真実だと思うのですね」
まいはうなずいた。
「あまり上等ではなかった多くの魔女たちが、
そうやって自分自身の創りだした妄想に取り付かれて自滅していきましたよ」
まいは一瞬おばあちゃんに敵意のようなものを感じた。
闇の中の白刃のようにそれはきらりと光った。
おばあちゃんは見通したように、まいの手を両手で包んだ。
「まい、どうか分ってください。これはとても大事なことなのです。
おばあちゃんは、まいの言っていることが
事実と違うことだといって非難しているのではないのです。
まいの言うことが正しいかもしれない。そうでないかもしれない。
でも、大事なことは、今更究明しても取り返しようもない事実ではなくて、
いま、現在のまいの心が、
疑惑とか憎悪とかいったもので支配されつつあるということなのです」


ここで、おばあちゃんは、非常に重要なことを言っています。
基本的にスピリチュアリストたちは、この時のまいのような人々が多く、
スピリチュアルな世界では、このような光景をよく見かけますし、
同じような理由で駄目になっていくスピリチュアリストが多いのだと感じます。
疑惑というのは、完全に無実な人に対しても、際限なく感じることができるので、
疑惑に囚われ憎悪の塊のようになる人も珍しくありません。

そして、こういう精神的な態度は、「客観」よりも「主観」の方を優先しているからですが、
それは、そうするほうが精神的に「楽」だからで、楽な方が良いと「感じる」からだと思います。
精神的に楽な方が正しいとすると、結果的に、真実にたどり着くことはできなくなります。
というのは、楽な方が常に正しいとか良いということは、当然、ないからです。
何でもただで手に入れることはできませんが、
精神的な楽さというのも、何かと引き換えにしなければ手に入れることはできず、
その何かというのは、それを得るために人として生きてると言ってもよいほど、
人間の精神にとって非常に大切なものだったりします。
むしろ求めるべきものは、精神的な「楽さ」ではなく、
精神的な苦痛に耐えられる「強さ」のほうかもしれません。
身体的なことでも、鍛錬しすぎて体を壊すということはありますが、
常に楽な方が体に良いということはありません。
心にも体にも、適度な負荷というのが必要です。
(もちろん、弱っている人には、鍛錬ではなく休息が必要です)

スピリチュアリズムでは、あるがままの自分が素晴らしいということがよく言われますが、
自分の個性がどのような場合にメリットになり、どのような場合にデメリットになるか、
そして、自分の個性をどうすれば活かす事ができるか、
というような知識や習慣を後天的に身につけた後でなければ、
あるがままの自分というのは、残念ながら、素晴らしくはなりません。
あるがままの自分が素晴らしいと思うと、自分に対しては保守的になります。
自分に対する保守性を保とうとすると、他者や外界に対しては革新的になり、
自分と他者や外界との間に不調和が生じた場合、
自分ではなく、他者や世の中の方が変わるべきだと考えますが、
その様な考え方は、結果的に不調和を促進します。

「わたしはそういうことに動揺せずに、平気になんか、絶対になれない。
わたしはあの人を好きになんか、絶対になれない。
あんな汚らしいやつ、もう、もう、死んでしまったらいいのに」
「まいっ」
おばあちゃんは短く叫んでまいの頬を打った。瞬間の出来事だった。
まいはあっけにとられた。それから涙がじわりとわいてきた。
「おばあちゃんは、わたしよりあの男の方が大事なんだ」
必死でそれだけ言うと、立ち上がってバタバタと屋根裏の自分の部屋に駆け込み、
ベッドに飛び込んで頭から布団を被った。
おばあちゃんはひどい。わたしをこんな屈辱的な目に遭わせるなんて。
それも、あんな男をかばうために。おばあちゃんはひどい。
こんなに野蛮な人だとは思わなかった。
それもこれもみんなあの男のせいだ。
あの男さえいなかったら、おばあちゃんとわたしは本当にうまくいっていたのに。
あんな男は生きている価値がないんだ。ああ、悔しい・・・・・・。


この出来事によって、大好きなおばあちゃんとの関係にひびが入り、
わだかまりを残したまま、まいはおばあちゃんのところを去ることになり、それ以降、
おばあちゃんが亡くなるまで、おばあちゃんのところに訪れることはありません。

もちろん、ゲンジさんは死に値するようなことはしていませんし、
ゲンジさんが働いた悪事というものも、単にまいの想像するところであって、
それが事実であると確認されたわけでもありません。
まいは、自分の「信じること」に従って、憎悪の塊になっているのです。

そして、まいの そういう想像が当たっているかどうかというのは、
最後まで、ほとんど明らかにはされませんし、当たっている可能性も、もちろんあるのですが、
まいの想像に過ぎなかったということが、一つだけ、明らかになる場面があります。
ゲンジさんが、おばあちゃんのことを「外人」呼ばわりしたという一点のみで、
ゲンジさんはおばあちゃんのことを悪く思っているだろうと、まいは想像するのですが、
おばあちゃんが亡くなったとき、
ゲンジさんは、銀竜草(ギンリョウソウ)という花を持ってきて、
おばあちゃんのために涙を流すのです。
ゲンジさんは、おばあちゃんに手向ける花は、
銀竜草が相応しいと考えたのだと思います。

ginryuusou


この作品の中で、銀竜草は、
既に亡くなっているおじいちゃんが好きだった植物で、
おじいちゃんの魂の象徴のように描かれている植物です。
この銀竜草は、葉緑素を持たず、日光を必要としない植物で、
暗闇の中で育ち花を咲かせることができるのです。
そして、暗闇の中で白く輝く銀竜草は、
絶望の中の希望を象徴しているようにも感じます。

ゲンジさんはおじいちゃんのことが好きで、
おじいちゃんも生前、ゲンジさんを可愛がっていたということから、
ゲンジさんに銀竜草のある場所を教え、
銀竜草のことについて話していたのだと考えられます。
出来の悪い自分を可愛がってくれていた人の奥さんで、
しかも、自分を印象だけで判断しない人を、
ゲンジさんが悪く思うわけがないのです。

ゲンジさんの印象が悪いということは、
おばあちゃんにも、当然 解っていたと思いますが、
ゲンジさんがおじいちゃんを好きだったということもあって、
ゲンジさんの本当の人間性などの、
印象以外の部分についての知識もあるわけです。
また、ゲンジさんに対するその様な、公正な態度というのは、
特に何も悪いことをしていなくても、怪しいと疑われれば、
火あぶりによって処刑されたというような、
魔女の歴史というのも関係しているのかもしれません。

まいがおばあちゃんの所を去る日の前日に、
山の中で足を滑らせたことから、
偶然に、この銀竜草を見つけて、新種の植物かもしれないと思い、
おばあちゃんのところ持っていく場面があるのですが、
まいはその時、見えない何かの存在を感じています。
そして、どうやらこれは、おじいちゃんの魂のしわざのようで、
まいが将来的に、ゲンジさんの存在を許すことができるようになるための、
布石のようなものではないかと考えられます。

まいは小さい頃、お父さんから、
「人は死んだら、最後の最後で、何もわからなくなり、
自分というものも無くなり、もう何も無くなる」
ということを教えられて、そのことでずっと悩み、苦しんできたのですが、
おばあちゃんは、自分が死んだ後に、まいにしか証明にならない仕方で、
生前の約束どおり、魂の存在を証明してみせます。
このことによって、まいは、その長年の苦しみから救われたと思いますし、
同時に、自分の経験によって知ることの大切さや力強さ、
「事実を知る」とこと「信じる」こととの違いを知ったのではないでしょうか。

しかし、これは、まいにとっては確かな証拠、紛れもない事実そのものなのですが、
他の人には、何の証拠にもならないというのが面白いところで、
スピリチュアルな事象を扱うときに、よく遭遇する現象でもあります。
経験というのは個人的なものなので、ある人には明らかな事実であることでも、
他の人には「信じない自由」というものが与えられているのだと思います。

そして、まいは、おばあちゃんのところを去った後も、
それがおばあちゃんとのつながりを保つ方法だと感じて、
魔女修行をずっと続けてきたお陰か、この頃になると、
一般的に魔女という言葉から想像されるようなものではありませんが、
「魔女的な何か」が芽生えてきており、
勘の良い、まいの友人にも、それを感づかれています。
これは、自分の決めたことを粘り強くやり遂げる力、そして、
一見、それと矛盾するように見える、我を通すこととの放棄にも繋がると思いますが、
自分の意識が意図することができなくなることにより、結果的に、
自分の魂が望むことが実現するという、奇妙なめぐり合わせのようなものです。
そして、この魔女的な何かというのも、人から見れば、
単なる偶然にしか見えないようなものであるのも面白いところです。




映画 『西の魔女が死んだ』の主題歌、『虹』 です。
Korva の大好きな曲です。
歌は手嶌葵さん本人によるものではなく、他の方のカバーです。



こちらは、2008年に公開された映画の予告編です。
映画の方はまだ見ていませんが、機会があれば見てみたいです。

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スピリチュアル | 11:11:11 | トラックバック(0) | コメント(12)
コメント
おはようございます^^
記事を読ませていただきながら、
自分のヘミシンクの体験を思い出しました。

私は、いわゆるヘミシンクをする人としては
かなりの落第生です。



いくらヘミシンクを聴いても
なかなか体験できず・・・


でも・・・

もうやめてしまおうかと思った頃合いに
突然、体外離脱の強烈な体験をしました。
(それについては、後日、記事にする
予定ですが・・・)

この強烈な体験から、
ヘミシンクは本物のツールであることを
確信しました。



ただ、その後は、残念ながらと
言っていいのか・・・
あまり体験らしい体験は
進んでおりません。

つまり、何が言いたいかといいますと、
ヘミシンクをもうやめてしまおうとすると
強烈な体験でヘミシンクや非物質界の実在を
思い知らされ、ヘミシンクや非物質界のことを
もっと知りたい、もっと体験したいと思っても
今度は体験できない。

これって、ひょっとしたら
『バランス』をとられているのかな?
と思ったりするのです。

たぶん、私の性格では、
どんどん非物質界の体験が深くなると
その世界にのめりこんでいくことでしょう。

そうならないように、
非物質界の存在達が、私に対して
あえて体験を深めないようにしているのかな・・・(?)
と思うこともあります。

もし、そうであるとすると、
非物質界の存在達が本書でいうところの
おばあちゃんのような働きをしてくれている
のではないかとも感じました。

もちろん、ここまで書いたことは
私の妄想なのかもわかりません( ^ω^; )

変なことを書いて、すみません。




話を記事の感想に戻しますと、
記事を読ませていただいて感じたのは
魔女のおばあちゃんが伝えたかったのは
生き方や精神のバランスのとり方では
なかったのかなと思いました。

実際に、本書を読んでいないので
よくわかりませんが( ^ω^; )






私、難しいことはよくわかりませんが、
自分の信じていることを絶対と
思ってしまうのは、危ないのかなと
感じています。

自分は、間違いだらけの人間なので、
何かあったら、修正しながら
生きて行こうと思っています(^^)




Korvaさんの本書の分析
とても読み応えがありました。
また、できましたら、本の分析の記事を
出していただけたらと
最後のリクエストさせていただきます。

長々とコメントを書いてしまい
すみませんでした<(_ _)>




2018-06-08 金 07:34:27 | URL | 坊主おじさん [編集]
訂正です<(_ _)>
すみません。
訂正です<(_ _)>

『最後のリクエスト』ではなく、
『コメントの最後に、リクエスト』で
お願いします。

大変失礼いたしました。

2018-06-08 金 07:40:38 | URL | 坊主おじさん [編集]
坊主おじさん、コメントありがとうございます^^

ロバート・モンローは、自分の経験が本当かどうかを
確かめることができるツールを提供しているのがフェアだなと思います。
嘘をつきたい場合は、他の惑星の話にしたり、
できるだけ確かめることができない状況をつくるはずなので。

ヘミシンクは体験したことはありませんが、
ロバート・モンローの本は一通り読みました。
いちばん心に残っているのは、
「論理的な思考」が重要であるということを彼が言っていることです。
この本を読んだのは30年以上前なので、既に記憶があやふやですが、
(学研から出ていた本で、彼の日本で最初の書籍だと思います)
彼が体外離脱をした際に、どこかに閉じ込められて脱出できなくなるのですが、
最初は感じるままに、あれこれと脱出を試みても、どうしても脱出できないので、
落ち着いて、論理的に考えた方法を試すと、簡単に脱出できる場面があります。
そして、いままで彼が危機に陥ったときに、
その危機から脱出できたのは、常に論理的思考のお陰だったと言うのです。
これは、この場面以外でも良く見る光景で、
感じることにのみ頼っていると、永遠にその常態から脱出できませんが、
純粋に論理的な思考を始めると、その状態を簡単に脱出できるということが、
物質的なことでも、精神的なことでも多いと思います。
大体、生物の言うのは、本能のみの状態から、
感じることが加わり、それから、考えることが加わります。
人に考えるなという存在は、人の意識を退化させたいとか、
永遠に低いレベルに縛り付けておきたいとかの意図があるのかもしれません。
スピリチュアルには論理的思考が大切なんていうと、スピリチュアルな人には、
程度の低い人として、あからさまに馬鹿にされたりしますが・・・
直観というのは、膨大な論理的思考の先にあるもので、
思考の上位の機能で、洞察力のようなものが含まれると思います。
スピリチュアルな人の言っている直観は、単なる印象のようなもので、
洞察を含まないことが多く、思考の前の感じるレベルだと思います。

おばあちゃんがバランスを大切にしているというのは、
そのとおりだと思います。
物事を絶対化すると、
左にしかハンドルの切れない車に乗っているようなものですが、
早かれ遅かれどこかにぶつかりますね。
日本人は、どうも物事を相対化する傾向が強いですが、
相対化することによって、バランスが取れるようになると感じます。
絶対化はその反対で、バランスの放棄だと思います。
そう言えば、モンローの後期の本に、体外離脱して未来人に会うくだりで、
将来 何か美しいことが日本から始まる
というような記述があったと思いますが、
実家の方にあるので、読み返せないのが残念です。

坊主おじさんが、ヘミシンクで体験したことは、
おっしゃるとおりのことだと感じました。
必要なことは体験したので、とりあえず、今は、
それ以上は必要ないというようなことかもしれませんね。

坊主おじさんのヘミシンク体験は非常に興味深いので
記事を楽しみにしております^^

2018-06-08 金 14:31:08 | URL | Korva [編集]
こちらの記事をアップされ、
度々お知らせを頂きましてありがとうございました。
Korvaさんは私がこちらの記事について
意見を書くことを歓迎して下さっているんだな、と感じて、
初めから終わりまで
とても真剣に読ませていただきました。

随分前のことになりますが、Korvaさんの定義される
“スピリチュアリスト”の意味がどうしても分からなくて、
ご質問めいたことを書きました。
「Korvaさんの定義が理解できないまま、
 どうコメントを書いたらいいのだろう?」
という思いを抱えながら自分なりに書いてみました。

スピリチュアリストの定義はさまざまと思います。
人はみな違うので、
人は自分と共感できるような部分
(信念のようなもの? 移ろうものではあっても?)を
“探す”ような読み方や聞き方
をするようなところがあるのかも分かりません。

私の“意見”ということで書かせて頂きますと、
私たちの暮らす地球で私たちが 「こうだ。」
と考えている定義に“絶対”はない、と思っています。
だから、「定義が違う。」というとき、それは“意見の違い”で、
“相手は意見を正すべき”という考えは持っていません。

例えば、人とか考えに出会ったとき、
私たちの心にはさまざまな【感情】が生じると思います。
共感する思いだったり、反発だったり…。
でも、そういった感情こそが、(エマーソンの名言のように?)
「絶えずあなたを何者かに変えようとする世界の中で、
 自分らしくあり続けること。それがもっとも素晴らしい偉業である。」

ではありませんが、
自分らしさに気付かせてもらったり、
自分なりに成長するためのシグナルのような役割を
果たしてくれるようにも思います。
(もちろん、どれも私の“意見”に過ぎません)。

Korvaさんの言葉に、かつて次のようなものがありました。
《HeartLibertyさんの言う、
「深い感謝を伴う ようなタイプの霊的体験」
 というのは、私も何度かありますが、 こういう経験をすると、
「事実」に基づいて考える傾向が強化され、
 自分にも、異質な他者にも世界に対しても、
 肯定的な観念を抱くようになり、
 事実に基づかない思い込みが減っていきますが、
 こういう経験のない人がスピリチュアリズムを学ぶと、
 事実を無視して「願望」に基づいて考える傾向が強化され、
 結果的に自我も強化されます。
 そして、同じ思想や価値観を持たない人や世界に対して、
 否定的な観念や感情を抱くようになり、
 事実に基づかない思い込みも増えていくので、
 ありのままの事実を見ることができなくなり、
 事実を認識することを偏見だと感じるようになり、
 事実に反することを信じることを、
 正しい認識だと感じるようになります。 》

この中の“事実”という表現を
“集合的無意識といったようなもの”に
置き換えさせていただけるのであれば
とても共感できるものでした。


Korvaさんの考えと異なると感じていることについて、
自分なりの意見を分かり易く書くことを
Korvaさんは求めていらっしゃるのかな?
という思いがしている中、本日こちらを再訪しました。
そのとき、数時間前にメールboxに受信したばかりの、
あるメルマガの存在に気づきました。
記事タイトルは『科学の限界』というものでした。
https://ameblo.jp/oranger13/entry-12382547230.html
ブログ主さんは、Korvaさんもかなり前に訪問をされたり、
コメントも残されたことがある、と言っておられた方です。
読めばそこには、こちらに今日、自分が書こう思っていたことが
とても上手な表現で書かれてありました。

「無いのではなく分からないのだと
 もっと謙虚になる必要がある。」

という一文がありますが・・・

ご紹介図書の中の“おばあちゃん”が
“魔女”という設定であることを考えるとき、
目に見えることだけを信じる傾向のある孫を
もっとバランスの取れた視野の広い子に育って欲しい
という願いを持っておられるのかな、と感じました。
「科学的な根拠をもとに全ての物事を理解しようとする。」
といった、その同じ考え方は、
魔女といった存在は肯定しないだろうと思います。
著者は少なくとも、科学盲信を肯定する立場ではない
...ように感じました。
(私も本を読んでいないのに書いております ヾ(;´▽`)ヾ)

「無いのではなく分からない。」
という立ち位置からの“科学的見地”であれば、
“科学信仰”とか“科学教という宗教”といった感覚が
自分の中に生じることもないのでは?…と思います。


体外離脱についてKorvaさんが坊主おじさまに書いておられた
「必要なことは体験したので、とりあえず、今は、
 それ以上は必要ないというようなことかもしれませんね。 」

に賛同します。
近年、とても似た考えを自分も持つようになりました。
坊主おじさまの「『バランス』をとられている…」
というお考えに賛同します。
おばあちゃんはバランスを大切にしていると感じました。

魂が肉体から出るということを実際に体験することが、
素のままの自分でいる(自分らしくいる?)ためには、
自分の望む形での自己の成長のためには、
大切で必要な体験だった...
体外離脱の1番の意味は
少なくとも自分にとってはそういうこと
だったのかもしれないと思っています。

“独自のもの同士”が共存する中、
それぞれの“独自”を大切にすればするほど
全体としては豊かにハーモニーするような感覚もあります。

考えが一番異なる点は、
それぞれの“独自”を大切にする(自己信頼感を増やす?)のに、
Korvaさんは【思考】(考えること?)を大切な指標とされ、
私は【感情】(感じること?)をそうしているところでしょうか?

これは(人生の)テーマの違いにも
関係しているのかも分かりません。
私にとっては、思考は寧ろ、
素の自分を信頼することの妨げになるようです。

思考は“(過去の)記憶”を基に為されるように思います。
記憶を手放すと、つまり、
“今の瞬間の感情”のみにフォーカスする量が増えると、
負の感情を連れて来るような種類の古い記憶には
アクセスをしにくくなります。
それは「気持ちが明るくなる。」ことに繋がります。

直前の記憶さえどこかへ飛んで記憶に残らない
といったことも起こりますが、
思い出せないようなことは実は重要ではなくて、
古い記憶が混み合っていない分、
“集合的無意識のようなもの”へのアクセスが
活発になることの大きな助けになると感じます。


「すべてが波動で出来ていて、
 波動(感情の起伏?)によって(1秒間に10億回?!)
 瞬間瞬間、それは上下を繰り返している。
 波動が低下しているとき(素の自分を
 信頼する気持ちが弱まっているとき?)は、
“感謝したい気持ちになるような霊的体験”は起こらず、
 むしろ反対の気持ちになるような霊的体験をする。」
といった理解の仕方の中には、
自分は優れた存在などといった
ヒエラルキーに囚われた見方は存在できません。
前向きな姿勢で人生に向き合えそうに思います。


コメントを書き終わり読み返してみて、
このようなことは
自分のところで書くべきだとも思いました。
長くなってしまったからという理由以上に、
Korvaさんが考えておられるところの
“スピリチュアリスト”というカテゴリーに属する
“かも”しれない人や存在(?)を擁護するような内容が、
対立するようにも受け取れるような内容が、
含まれているかも知れないと感じたからです。

ですが、スピリチュアリストということばを
スピリチュアリティー・アロガンス
とか
スピリチュアル誇り
といった意味で使っておられるのだとすれば、
スピリチュアリストということに関する意見の相違は
あまりないのかも分かりません。


『虹』 という歌のご紹介に心よりお礼を伝えたいです。
手嶌葵さんという方(ご本人)の方もアップされた方も
どちらもとても素晴らしかったです。
美しいメロディーと歌声を
どうもありがとうございました ヾ(*´∀`*)ノ
2018-06-10 日 22:53:29 | URL | HeartLiberty [編集]
HeartLibertyさん、コメントありがとうございます^^
そして、真剣に読んでいただき、ありがとうございます。

HeartLibertyさんのブログも、習慣的に訪問するブログの一つですので、
度々お知らせしたというのは、きっと訪問者リストのことですね。
最近は、訪問するスピリチュアルなブログが減ってしまって、
HeartLibertyさんのところと坊主おじさんのところと、
後は、時々見るところが、ほんの少数あるくらいです。
お二人のところは、自分の経験について書いてあるところに
惹かれるのかなと感じます。
スピリチュアリズムについては、純粋に学問的なことと違い、
経験というのが非常に重要になると感じるので・・・

私が昔書いた文章というのは、なんとなく憶えていますが、
今も基本的な考え方は、変わっていません。
これについては、変な人と思われる危険がありますが(笑)
そのうち気が向いたら、このブログで書くかもしれませんし、
HeartLibertyさんのところにコメントするかもしれません。

ある程度ちゃんとした育ち方をした方は、「感じる」だけでも、
それほど問題が生じないだろうと思います。
HeartLibertyさんもそんな感じがします(笑)
比較的ネガティブな育ち方をした場合、
否定的な先入観や思い込みが多くなるので、
普通に感じているだけだと、次から次にネガティブな思いがわいてきて、
ネガティブスパイラルに落ち込んでいきます。
そうならないためには、その否定的な先入観や思い込みが、
事実であるかどうか、というのを一つ一つ確かめて、
事実でないことは、何らかの方法で除去するか
中和するかしなければなりません。
そして、そのための有効な手段が論理的思考と経験だと思います。

例えば、親から馬鹿だ馬鹿だと言われて育てば、
本当の自分よりも、自分のことを馬鹿だと思うようになります。
そして、例えば、その人が学生なら、
勉強を頑張って学年トップにでもなれば、
その経験によって、その思い込みを中和できますし、
それ以後は、自分が馬鹿であると感じることは事実上かなり難しくります。
(自分が馬鹿だとすると、他の人はもっと馬鹿だということになるので、
人を尊重すると、自分を貶すことも難しくなる)

そういう経験がない場合は、
自分に対するポジティブなイメージを信じることで、中和しようとしたり、
他の人を過小評価することで中和しようとしたりしますが、
どう頑張っても、自分を騙している感じにしかなりません。
ポジティブな経験がない場合は、
ネガティブな先入観や思い込みの影響力は絶大です。
信じるものは救われるといいますが、
事実や経験でしか救われない人もいると思いますし、
信じることで救われようとするのは、非常に危険だと思います。

スピリチュアリティー・アロガンスに対して否定的というのは、
HeartLibertyさんに共感できる部分です。
基本的に異論を言うのはタブーなのかもしれませんが、
(異論を言うのを禁止すると、間違いを正すことも不可能になりますが)
スピリチュアルなブログで異論を言うと、
不快な目に遭うことが多いのですね・・・
スピリチュアルな思想の性質上、スピリチュアルな人は、
事実に基づいて論理的に論破するのが難しくなるので、
感情的になったり、レッテル張りによる印象操作などで、
相手をやっつけようとするからかもしれませんが・・・
その過程で、明らかな嘘なども混じるので、人間性が見えたりして、
見なくなったスピリチュアルなブログも多いです。

HeartLibertyさんのコメントを読むと、
私が言いたいことが伝わっていないというか、
べつの意味で伝わっていると感じます。
そう言えば、どこかのブログの
スピリチュアルな記事にコメントしたときも、
別の意味に解釈されたので、私の言いたいことは、
伝わりにくい内容なのかもしれません。
この記事のどこに科学信仰的なものがあるのか解りませんが、
超自然的なものを否定しているように感じるのかもしれませんね。
完全に肯定的ですが・・・

この魔女のおばあちゃんは、
バランスを重視しているのは確かだと思うのですが、
バランスについては、実はこの本では一言も言ってなくて・・・
その代わり、心と身体の方向性の大切さということを言っています。
(考えてみると、この記事も方向性の問題かもしれません)
書こうと何回か思ったので、書けばよかったかもしれません。
主人公のまいが、ちょっとした、霊的な経験をするのですが、
それの方向性に問題があると、おばあちゃんは考えるのです。
つまり、妄想であるか、良からぬものの声であると判断して、
そういう経験を後生大事にすると、
次から次にそういうものに振り回されることになると言います。
この場面も重要だと思いつつ、
言いたいことは言ってしまったので省きました。
2018-06-11 月 16:16:22 | URL | Korva [編集]
こんばんは
先日はコメントをありがとうございました、とても嬉しかったです。

この本は、ずいぶん昔に夫に薦められて読みました。
でも記憶があいまいで・・・
多分、当時目の前で進行中の我が子たちの不登校に頭が集中していたからでしょうね(汗)
ただ、最後の方の、おばあちゃんが残してくれたサイン(窓ガラスの文字?)の場面は、
心に焼き付いています。
また読み返してみたくなりました。
映画も見ていませんが、手嶌葵さんの「虹」にとても心動かされました。
ジブリの「思い出のマーニー」の主題歌を思い出しました。
Korvaさんはご覧になりましたか?
このアニメも、とても心に残っていて、何度か記事にしました。
あ、話がズレてしまいましたね。すみません。

スピリチャルは初心者なのでよく分かりませんが、
人の心の繊細さ(脳の働きの不思議)というところに注目してしまうので、
深めて行ったらどこかで突き当たる分野なのかもしれません。

なんだか的外れなコメントになって、すみません。
「虹」を教えてくださったことにお礼が言いたくて。
ありがとうございました。
穏やかな毎日が続きますように!
2018-06-14 木 22:36:03 | URL | ナカリママ [編集]
ナカリママさん、コメントありがとうございます^^

「西の魔女が死んだ」は比較的短い物語なので、
読み返すのも楽だと思います。
その代わり、重要な場面でもあっさりと描かれているので、
もうちょっと掘り下げて描いてほしいなと感じるところも多いですが。

「思い出のマーニー」の映画は見ました。
そう言えば、この物語も、祖母と孫の関わりの物語ですね。
人は、自分と似たタイプの人との関わりでしか、
深いところでの共感が生じないようなところがありますし、
そういうものを感じることで、自分は一人ぼっちではなかったと、
感じることができるのかもしれませんね。
主題歌の"Fine on the Outside"は大好きな曲ですし、
自分もそういうタイプなので共感できます。

スピリチュアルは、結構好きなんですが、
自分の経験を基に考える人より、
本で読んだことを信じて宗教化する人の方が多いと思います。
そうなってしまうと、本当にアンタッチャブルな感じになりますが、
非常に興味深い部分が多いのも事実です。
非常に物質的な思想や価値観を持つ学者も、
不思議な体験をすると、自分は統合失調になったとは思わず、
こういう現象は実在するのだと考える人が多いのも面白いところです。

不思議な現象といえば、
中学生のときに見た「銀の巨樹」の夢が、
ずっと心に引っかかっていたのですが、
ponchさんのブログで中学生の頃に見た夢の記事があったので、
「銀の巨樹」の話題を出したところ、ponchさんが読んだ作品に、
輪廻転生の象徴として描かれているということを教えていただきました。
確かに、「銀の巨樹」の夢を見た頃は、
輪廻転生のことなんかをよく考えていました。
この「銀の巨樹」の夢は、ponchさんに話したのが初めてだったので、
確率的なことを考えると、なかなか面白いものがあります。
2018-06-15 金 09:47:44 | URL | Korva [編集]
返信を読ませていただいてすぐに思ったのは、
Korvaさんの今回の記事を、
「自分はKorvaさんが考えておられることについて、
 まだ、ほんの少しも、何も分かっていないんだ。」
という前提に立ち返ってもう一度読み返す必要性でした。


そうしてみて分かったことは
たくさんの重要な点に於いて、
Korvaさんと似た考えを持っているかもしれないこと、
決定的に異なる点も多いけれども、
それは何なのか、ということに対する私なりの発見でした。
(「とても真剣に読ませていただきました。 」つもりが、
  そう言う資格はありませんでした (〃..) )


おばあちゃんの言葉に
「いちばん大切なのは、意思の力。自分で決める力、
 自分で決めたことをやり遂げる力です。」

というものがあります。

“意思”や“自分で決める力”の“出所(でどころ)”
についての認識こそが、
Korvaさんと私とで大きく異なる点ではないかと・・・。


実はとても長いコメントを書いたのですが、
かなり書き進めたところで
「Korvaさんへのお返事は本当にこれでいいですか?」と自問すると、
「この重要な変化のときには、たくさんの抵抗が起こりがちです。
 ですから、口を開く前に、自分が何を言おうとしているか、
 ということを訓練しなさい。」
(There could be a lot riding on this pivotal moment,
 so practice what you’re going to say
 before you open your mouth.)
という答えが返って来ました。


今日は、娘に大きな感動を下さったことへの
心からのお礼を、まずはこちらに書きたいと思います。
手嶌 葵さんの歌う『虹』…。
流れ始めるとすぐに目を閉じ、ずっと至福の表情をしていました。
胸が震えた、と申しておりました。
お名前の葵は彼女と漢字も同じで…。
考えていた名が誕生すぐの彼女に似合わないと感じ、
考え直した結果つけた名でしたが、
準備していた名は“まいこ(漢字は未定のまま)” でした。
おばあちゃんの孫娘は “まい” でしたね。
名付けに絡んで書いたブログ記事に、坊主おじさまより
「娘さんの名前、 たとえば、すみれちゃん のような、
 かわいい名前が ついたのでしょうか?( ^ω^ ) 」
そんな楽しいコメントを頂いたのですが、
当時 “すみれ” は思いつきませんでした(笑)


子らが今も大好きな歌で、
特に息子が人生で1番最初に好きになったのは、
木村 弓さんの『いつも何度でも』
https://youtu.be/9O4SMw_8Om0 )でした。
これは、好きで何度も繰り返し観た
『千と千尋の神隠し(Spirited Away)』のエンディングで流れる曲です。
手嶌 葵さんはジブリともご縁のある方のようですが、
『虹』は『いつも何度でも』を思い起こさせました。


2つの歌は共に、メロディーのみならずその歌詞も、
心に光を灯すような温かさを感じます。
どちらも“とてもとても深い悲しみを知る心”が、
光へと向かう希望の力を
聴く人に与えてくれるように思います。


『いつも何度でも』の歌詞の中には、
Korvaさんと認識の異なる《根拠》となっている
かも(?)しれないとも感じられる、
今の自分にとって大変重要な言葉が
含まれていることに昨日気がつきました。

それは
「さよならのときの静かな胸 ゼロになるからだが 耳をすませる」
「始まりの朝の静かな窓 ゼロになるからだ 充たされてゆけ」

です。


おばあちゃんの言葉に
「瞑想などで意識が朦朧となった、
 しかも精神力の弱い人間を乗っ取ろうと...」

というのがあります。
“瞑想で意識が朦朧となる状態”は、
“精神力が弱る状態”とは反対の方へ向かう状態”
という感覚を憶えます。

精神力が弱る状態、それは、
“本来の瞑想”が出来なかった状態、
Korvaさんの表現ですと
「嫉妬や憎悪などのネガティブな感情を土台としている状態」
かと思われます。


「魔女は自分の直観を大事にしなければなりません。
 でも、その直観に取り付かれてはなりません。
 そうなると、それはもう、激しい思い込み妄想となって、
 その人自身を支配してしまうのです。」

そんな言葉もおばあちゃんは言っています。

「激しい思い込み妄想となって、その人自身を支配してしまう」
ようにしか周りの人には見えないようなとき、
その人が受けているのは “直感” ではない、
それは直感とは言わない、のではないでしょうか。


「でも、精神さえ鍛えれば大丈夫」
このおばあちゃんの意図は、
「自分の力ではどうにもこうにもならないような
 自分の人生の責任を放棄しなくてはならないような
 恐ろしい他者存在などいないのだから、 
 人を責めず、自分の足で歩いて行く強さを
 持って下さいね・・・。」
という風にも受け取れます。


限られた日数でしたが、統合失調症と診断名を付された
近年出会うことになった友人と寝食を共にする中から、
たくさんのことを学ぶ機会をいただくことが出来ました。
自分自身や同居家族の体験ではないのに、
ネガティブな霊的体験を憶測で活字にすることには
どうしても抵抗がありました。
複数の理由で書くことに迷いがあり、
こういったことについては
これまで書く機会を持って来ませんでした。

でも、Korvaさんの仰りたいことが分かる部分があります。
「ネガティブな先入観や思い込みの影響力は絶大です。 」ですが...。
そうでないときは天使のようでも、
「嫉妬や憎悪などのネガティブな感情」
同波動の存在たちを“うようよと引き寄せてしまっている”
ように私の目に映るとき、
本人の心身への負の影響力は、ほんとうに絶大に見えました。
家族を始めとする同居の人々の複雑な思いにも
限られた体験ですが、触れさせて頂きました。

統合失調症のきょうだいを
何十年もヘルプし続けて来た高齢の方のお話を聞き、
友人との共通点を感じたことがありました。

ひとつは、幼少期からの食事内容が
とても良く似ているようだったこと。
もうひとつは(体験不足ゆえの誤解があったらいけませんが)、
Korvaさんの言われるような(?) “精神の鍛錬” をする機会を
持てていない(自分自身の意思で
そういった人生のテーマを選んだ結果として?)
ように感じたことでした。


輪廻転生、といった要素が絡んだ形で
修行をいっぱい積んで来た魂というのは、
順風満帆に行く人生を選ばない、といいます。
霊的に(?)自分が好き好んで、
“精神の鍛錬” をする機会を自分に課すようなテーマを
初期の頃からスタートさせている(?)
というようなことは、実際にあるのかも分かりません。

これも私の意見ということで書かせて頂くのですが、
人が嫉妬の感情を持つのは、能力とか外見とか環境とか、
そういった瑣末的な要因ではなくて、
“人柄(霊格?)”に対して...なのではないかと....。


韓国ドラマは、こういった人間心理を
とてもよく踏まえて物語を作っているのではないか
ということも、近年になって思い始めました。
たとえば、悪役の人は、自分のした悪事を
自分の次に(笑)嫉妬心に取り憑かれている人
のせいにすれば一番早くて簡単なのに、
「そんな悪事は死んでも(笑)思いつかない人」
のせいにしたがります。
それも、猛烈な負の感情を伴って...。


厳しい試練を、この世という場所で肉体を持った自分に
自らの意思で課すことを好むような魂には、
いろいろな種類の苦労要素というのが
きっとありそうに思われます。
「人が嫉妬をするのは、他のどんなファクター
 でもなく、霊格の高さに対して」
というのであれば、
これまでいろいろな人に出会って来た体験を通しても、
とても辻褄が合うように感じられるのです。


他者に(自分にも?)“修行を強いる”ような
そんなスパルタ的発想は、
自分を信頼する気持ちを寧ろ減らすように思います。
経験の積み重ねが、結果的に私たちの成長を助けてくれる
...のではないかと思われます。
その過程で、必然的に“心身の鍛錬”というものが
出来て来るのだと思われます。
おばあちゃんの「精神さえ鍛えれば大丈夫」や、
Korvaさんのお考えと、もしかしたら重なる部分かも知れません。


「魂は身体を持つことによってしか物事を経験できないし、
 体験によってしか、魂は成長できないんですよ。
 ですから、この世に生をうけるっていうのは
 魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです。
 成長の機会が与えられたのですから。」

この言葉にとても共感します。


精神の鍛錬をたくさんすることを
自ら望んで生まれてくる、ということであれば、
負の感情に陥らざるを得ないようなネガティブ体験を
時間の経過と共に次々と積み重ねることになりそうです。

こうした積み重ねや繰り返しは、
結果として「世の中にはいろいろある。」
といったタフさ(経験値の広さ?)を
対価として(?)もたらしてくれるのではないかと...。

自分が望んで鍛錬体験を引き寄せる
ことを計画したのだとすれば、
それらを通して前に進むことを
自ら選んだのだとすれば、
些細なことでいちいち感情的になるような部分は
時の経過と共に減って行か“ざるを得ない
ということになるのではないかと...。

ネガティブな感情の存在を体験させられると、
ネガティブの反対側のポジティブな感情の存在にも
不可避的に気づかされることになるのではないかと...。

いちいち感情的になっていられないほど
経験値が広くなって行くと、
自分をゼロポイントに立たせる腕も
次第に上がって行くのかも分かりません。

上手になって行けば行くほど
自分の力だけで物事が上手く行っているとは
どうしても思えなくなるのではないでしょうか。

上手になって行けば行くほど
感謝せずにいられない体験が
次第に増えて行くのではないでしょうか。

上手になって行けば行くほど
感謝せずにいられなくなるようなことが
起こるだろうことを信じずにいられなくなる
のではないでしょうか。


《信じることが大切》というのは、
正確には、
《信じざるを得ないような体験の積み方が大切》
ということなのかもしれません。

「必死になって信じようとするとき」
では決してなく、
「体験的に信じざるを得ないとき」に初めて、
肉体を持った身体に
その「体験的に信じざるを得ないこと」が
実現する(物質化する)ように思います。


信じることの確かなチカラを信じない方が難しい...
といった信念が増えるためには、
やはり、考える(思考する)のではなく
感じる(感情)が鍵になるように思うのです。

“経験”と“思考”という表現をKorvaさんはされていますね。
“経験”という言葉には違和感を憶えないのですが、
“思考”の方には少し違和感があります。
“確かに自分で考えたように感じるのだけれど、
 実際には“大いなるすべて”の力を貸してもらって
 自分の思考のように自分の中に築かれた考え”
と言うとしっくり来ます。
「ありがたい(ラッキー)!」という感情が湧くとき
“自分の実力”とは思えない気持ちになります。


この《ラッキー(ありがたい)》といった感情は、
大いなるすべて、つまり、集合無意識とか無条件の愛
といったものと共鳴が起こるために湧く感情、
かもしれなくはないでしょうか?
こういった言い回しは、Korvaさんにとっては
“アンタッチャブル(←楽しい表現!)”でしょうか?


『いつも何度でも』の「ゼロになるからだ」というのは、
「共鳴の起こる場所」ではないかと思うのです。
共鳴が起こった結果、自分の考え(思考)だとしか
自分には思えないようなことが頭に浮かぶ事柄を
「自分の頭で思考した。」とは言いにくく、
「感じることで自分の思考となった。」とする方が
事実に近いと感じるのです。


『いつも何度でも』の「かなしみの数を言い尽くすより 
同じくちびるでそっとうたおう」
は、
「過去の悲しみから逃避するのではなく、それを受け止め、
 そして、考えることからいったん頭を休め、
 心を凪の状態にしてみましょう。
 そうすると、凪の波動と共振する波動が、
 元々はすべての存在が素の状態で持っているところの
 無条件の愛のそれに繋がり易くなるようですから...。」
そんな風にも受け取れます。


この歌はこんな言葉で終わっています。
「海の彼方には もう探さない
 輝くものは いつもここに 
 わたしのなかに 見つけられたから」


手嶌 葵さんの『虹』の中の
「透き通る思い すべて愛を育てて」
「透き通る思い」というのは
木村 弓さんの『いつも何度でも』の中の
「ゼロになるからだ」
《私たちが同じ波動になることのできる状態》
と言っているようにも思えます。


http://www.dailymotion.com/video/xxeujo の動画を、
子らにもシェアさせて頂きました。
全員集合したときに見るのが楽しみです。

Korvaさんの記事やコメントの中に
(今回はナカリママさんのコメントの中にも!!)
シンクロをいろいろと発見させて頂きました。
とても興味深い体験をたくさんさせて頂きました。
ありがとうございました m(_ _)m  ❀(*´◡`*)❀
2018-06-16 土 09:36:02 | URL | HeartLiberty [編集]
HeartLibertyさん、コメントありがとうございます^^
ショックなことが続いたので、少々お返事が遅くなりました。

この物語についての解釈論争は、
あまり意味がなさそうなので遠慮しておきますね。

娘さんに『虹』を気に入っていただけて良かったです。
マイナーな曲ですが、本当に素晴らしい名曲だと思います。

木村 弓さんの『いつも何度でも』は、私も大好きな曲で、
ジブリ映画に出てくる曲では、いちばん好きな曲です。
メロディーも良いですが、歌詞が非常に素晴らしいですね。
聴くたびに、この歌詞は本当に凄いと思います。
昔、この曲に感動した話を妻にしたら、
カセットテープ(古いですね)に入れてプレゼントしてくれたので、
よく カセットテープで聴いていました。

直感についての私の見解は、
スピリチュアルな人達とは、かなり違うと思います。
スピリチュアルな人の言う直観は、
印象とか連想のことを言うことが多いと思います。
印象ではなく、霊感のことを言っていることもありますが、稀ですし、
霊感のある人は、スピリチュアルな人とは、
思想の内容がかなり違っているのが普通です。
というのは、霊感のある人は、自分の経験から思想が生じるからです。

私の場合、
最初にイメージ・思考・意味・理解のかたまりのようなものが現れて、
それは最初は言語的な内容を伴ってはいないのですが、
それでも、論理的な構造を持っているので、
翻訳のように言語化が可能なこともありますが、
サイズが大きく複雑なものは、言語化が非常に難しいことも多いです。
論理的な構造を持っていないものは、イマジネーションのようなもので、
洞察を含まないことが多いと思いますが、
含む場合は、霊感かもしれません。
そして、そのかたまりのようなものが論理的な構造を持つことから、
直観というものは、論理的思考の上位の機能のように感じます。
思考はこちらから行くような感じ(能動的)ですが、
直観は向こうから来る感じ(受動的)で、方向性が違いますが、
構造や性質が似ていると感じますし、
直観の小さな一部分が思考だとも感じます。
色んな直観があるので、明確には定義できないと思います。

精神を鍛えるのは非常に大切だと思いますが、
私は特にスパルタではありませんし、
他者に対しては全然スパルタではありません。
若くてエネルギーのあるときは、
自分に対して一時期スパルタだったかもしれませんが、
そうすることで得られたものも多かったので、
元気な人には、その方が良いこともありますし、
頑張りたいときには頑張っておいた方がよいです。
競争に勝つことで、競争の空しさが解るのと、
単に「すっぱい葡萄」的に競争を否定するのでは、
見た目は同じでも、内容は全く違いますし、
これは非常に重要なポイントだと思います。
スピリチュアルな人も左派も、言ってることが、
「すっぱい葡萄」的な人が多いと感じますが、
そういう傾向は、後々問題を生じさせると思います。

嫉妬深い人というと何人か思い出しますが、
人間性など、内面的なものに嫉妬しているという感じはありません・・・
韓国ドラマで描かれている嫉妬というのは、
彼らが心理的なことをよく理解しているというよりは、
彼らの習性をそのまま描いているのだと思います。
彼らを観察していれば、そのままのことをしていますよ(笑)
異文化の理解などと考えて、
彼らの感覚に慣れると色々と危険だと思いますよ。
そういえば、随分昔に、もうどこで読んだのかも忘れましたが、
ナチスの人種差別主義者だった人々の魂が、
大挙して朝鮮半島に転生してきている、
という記述を見て、何故か、
これは憶えておく必要があると感じて憶えていました。
当時はまだ彼らのことには無知で、日本人も韓国人も同じアジア人だし、
内面的にも日本人に似たような人々であろうくらいに考えていましたが、
最近は、ああなるほど、そういうことだったのかと、変に納得しています。

私が、アンタッチャブルだと感じるスピリチュアリストたちというのは、
自分たちの思想や価値観を絶対化して、
思想や価値観の違う人達を邪悪だとか劣等だとか感じている人達です。
信じることによって思想や価値観を形成すると、
そうなりやすいと感じます。
そして、こういう人達は、自分のコンプレックスを
精神的なエリート意識で補おうという動機があるように感じます。
何かを信じたい場合、大抵は願望によって信じたいのですが、
なぜ信じたいのかという動機が重要だと思います。
私がスピリチュアルには保守性が大切というのは、
保守派はリアリストが多く、左派はべき論者が多いから、
というのもあります。

そして、思想内容の違いは、
信じることと、知ることとの違いから生じているようにも思います。
経験的に知ったことと、スピリチュアル本に書いてあることには、
明確な違いがありますが、
経験のある人は、その経験によって、
スピリチュアル本の内容についても、
ある程度、ここはおかしいんじゃないかな?
というような判断ができると思います。
人々が、目の前の崖に、ちゃんと橋が架かっているから、
そのまま進んでも大丈夫だと言っても、
自分にその橋が見えていなければ、
そのまま歩いていく気にはなりませんね。
経験的に知ったことがある場合、人は信じることより、
そちらを優先せざるをえないと思います。

統合失調の方と寝食を共にしたお話は興味深いですね。
「同波動の存在たちをうようよと引き寄せてしまっている」
と感じられましたか・・・
私も昔、ある人に影響を与えているような存在たちが
ズラーっと見えたことがあり、
これは一体どういうことだろうと、
しばらく悩んでいたことがありました。
精神病は、単に脳の器質的な問題なのか、
何か見えないものが関わっているのか・・・
「精神科の一番の問題は病気を治せないこと」
なんて言われていますしね(笑)
2018-06-20 水 14:21:37 | URL | Korva [編集]
『いつも何度でも』が大好きなKorvaさんに、
奥さまがカセットテープをこしらえてプレゼントされたのですね ♪
宮崎駿さんのあの作品、覚和歌子さんの詩、木村弓さんの曲(歌声も?)は、
互いに共振し合い、誕生することになったのかなあ〜…
「またそんな感じの言い方かよ。」と
深くため息つかれちゃいそうですね(笑)

この歌は簡単に国境を超えてしまいましたね。
『Spirited Away』(『神隠しに合って』といった感じ?)という映画で
『いつも何度でも』(『Always With Me(いつも一緒だよ)』という
英語のタイトルが凄い!)を知ったフランスでは、
教会でこんな風に歌われたようです。
https://www.youtube.com/watch?v=HfTb1pDs2oo

かつてNHKの番組で、ウクライナの歌手(ナターシャさん)が
原発事故への真摯な思い(メッセージ)を発信され、
「とっても可愛らしい曲なんですが、
 とっても意味の深い歌詞を持っている曲です。」と、
弾き語りを披露した動画もあったのですね。
(メッセージも歌も美しい日本語で)
https://www.youtube.com/watch?v=d4Kijkkz4f0

ご自身の“直感”について説明されている中に
「イメージ・思考・意味・理解のかたまりのようなものが現れて」
というのがありました。
Korvaさんのように分析的に理解できていないので
「私にとっての直感というのは、どんなものと理解すべき?」
と自問すると、
「この光の正体は体、魂、思考、感情。
 そのすべてが複雑かつ精密にバランスよく結び付いた、
 オーラと呼ばれるエネルギー場です。」
という言葉を見せてもらいました。
“直感”というと、確かに“光”を連想しないでもありません。
直感の正体がこうした4つのエネルギー場である、といった風には
Korvaさんと違って自覚できてなどいません。
体が受け取る(心に浮かぶ)もの(?) のことを言葉に置き換えれば
Korvaさんの「イメージ・思考・意味・理解のかたまり」
が適切かもしれませんが...。
よく分からないので自問すると「この光の正体は体、魂、思考、感情。」
という表現を見せられたので、そのまま書きました。
“体・魂・感情”も関与しているんですよ、
と自分に教えてくれたかったのでしょうか?

確かに、家族/家族同然の友などに報告するとき、
感情の存在に気づくこともあります(無意識に涙が溢れて来たりetc.)。
「集団で嘘をついている。」という思いを受け取り、問い正すと、
「みんなで嘘をついていました。ごめんなさい。」
といったことも過去にありました。

普段はずっとさり気ないです。
言葉で示されるときも、活字だったり他者との会話の中だったり、
何かの番組の中だったりと、ほんとうにいろいろです。
思考のようなものがふと浮かんだ(口にした)直後に、
ゾロ目の数字やご縁のある数字を見たときなどは、
「その線で考えを進めて良いんだよ。」みたいな判断もしたりします(笑)
手を替え品を替え、いろいろ気付かせてくれようとしていても、
ずいぶんと見過ごしているように思います。

Korvaさんが他者に対してスパルタだなんて…。
正反対のイメージでしたらしっかりと持っています(笑)。

スピリチュアル本(?)というカテゴリーに属すると思われるものに
ジェームズ・レッドフィールドさんの『聖なる予言』があります。
「多くの不思議な偶然の流れに導かれて進んで行く人生」
みたいなお話です。面白くて一気に読みました(10年ほど前に)。
フィクションとして書かれていることにも誠実さを感じました。
対極を為す本として思い出したのは『神との対話』です。
あの当時、スピリチュアルに熱心に見えた人々が
この本のことをしきりに話題にしていました。
それで自分も読んでみようとしたのですが、
机上の空論のような感じがして
どうしても読み進めることができませんでした。
叱られているような部分を無理矢理自己反省しようとしても
どこか筋が通っていない感じで変な感じなのです。
近年になり、あるきっかけで気づきました。
対話していた相手は「神(大いなるすべて?)」のはずがないと…。

Korvaさんが記事タイトルにされたことのある
『シンクロニシティー』といった現象は、
“自分の意志とは関係の無いところで働いている力”
の存在無くして起こらないと思います。
たくさんの体験を通して、こうした力の存在を
知っておられるのですね。

「幸せな偶然というものは
“自己決定”を放棄し、運に任せて初めて起こる。」
という言葉を目にしたことがあります。
この表現も、『いつも何度でも』の
「ゼロになるからだ充たされてゆけ」
と似た意味のように思います。
運を当てにして自分では何もしない、というのではなく、
「何のことについても考えない(色即是空の空の)時間が生み出すもの」
のことを言っているように思います。
言葉に置き換えるのはとても難しいです。

嫉妬ということに絡んだお話の中に、
「人間性など、内面的なものに嫉妬している
 という感じはありません。」とありました。
重要な部分で言葉足らずでした。
霊格の高さに対する嫉妬の感情、と前回書いたとき、
心中に最も強くあったのは
障害児の方々やその親御さんのことでした。
特に当人は、簡単にいじめの対象になります。
いじめている側は、
「相手への嫉妬心がいじめたい心理に自分を駆り立てている。」
などとは夢にも思っていないと思います。
心理的なことをよく理解している上で嫉妬している、
というのではなく、
無自覚の嫉妬、魂レベルでの嫉妬、のつもりで書きました。

こうしたことを信じるようになったのも
複数の体験から来ています。
もう今からずいぶん前ですが、
「ダウン症のご本人と親御さんは
 輪廻の卒業を間近に控えた霊格の高い人々。」
といったことをどこかで読みました。
少なくとも自分の経験(出会い)と照らしたとき、
とても納得が行く内容でした。

在米中に出会ったお母さん(白人)は、ご長男は脳性麻痺でした。
ある日、10メートルほど先から歩いて来る彼女の周りが
光り輝いて見えたことがありました。
私は“肉眼で”霊の存在が視えたりはしません。
そんな私に、あたかも後光が指す、といった感じで、
そのお母さんの周りがとても眩しく見えました。
親しくおしゃべりをしたこともあったママさんでしたが、
ハツラツと底抜けに明るく、人生の悩みや苦労などとは
もっとも縁遠い人にしか見えませんでした。
車椅子に乗る長身のご長男といっしょに
学校に現れた彼女を初めて目にしたとき、
その笑顔はとても明るい光に包まれているかのようでした。
前回のコメントで、
「修行をいっぱい積んで来た魂というのは、
 順風満帆に行く人生を選ばない。」
と書きましたが、
これはそのことともリンクしているかも分かりません。


Korvaさんは「ある人に影響を与えているような存在たちが
ズラーっと見えたことがあり」と書いておられますね。
「同波動の存在たちをうようよと引き寄せてしまっている」
というのは、Korvaさんのように“視えた”のでありません。
夜間に何度か電話があった際、口調がいつもとは異なり、
声のトーンもやや“借り物”のように感じられました。
内面にあるネガティブな感情が
いろいろと引き寄せてしまっているように感じられました。


ブログにもコメントにも思いや考えを綴っていますが、
(起きた出来事は事実に忠実に書いているつもりでも)
時間の経過と共に解釈の浅さにいっぱい気付かされます。
いつまでたっても未熟もいいところです。

「なぜ信じたいのかという動機が重要だと思います。」
このKorvaさんの言葉に、何よりもっとも共感します。
2018-06-24 日 15:14:18 | URL | HeartLiberty [編集]
HeartLibertyさん、コメントありがとうございます^^

動画のご紹介、ありがとうございます。
どちらも素晴らしかったですが、
特にナターシャさんの演奏に感動してしまいました。
改めて、この歌の素晴らしさを感じました。
そして、この歌詞は、全ての部分が素晴らしいと感じますが、特に、
「粉々に砕かれた鏡の上にも新しい景色は映される」
という部分は、自分の身を引き当てて解釈してるのかなと感じました。

直観には、“体・魂・感情”も関与しているというのは、
そのとおりだと思います。
直観というより、予感や霊感のようなものは、
感情や肉体的な感覚(胸騒ぎなど)なんかも生じると感じます。
子供の頃、ちょっと大きな怪我をしたことがあり、その直前に、
「いつもやっていることだけど、今日これをすると大変なことになる」
という、はっきりとした予感が生じたにもかかわらず、
みんなやっているから大丈夫だろうと思って、
やってみたら怪我をしたことがありました。
その後、そのときの感覚と同じ感覚が生じ、
「あの時と同じ感覚だ」と感じたので、
今度はその予感に従って、危うく難を逃れたことがあります。
今思い出してもドキドキしますが・・・

表層意識では、何も感じていなくても、
無意識的に感じていることがある場合、
涙が溢れるようなことは、私も時々あります。
「感情は魂の言語」なんて言いますが、
感情では表現できない内容、感情では捉えられない内容は、
夢なんかの物語のような形式で表現されるのではないでしょうか?
パウロ・コエーリョの「アルケミスト」という物語に、
「オーメン」とか「ユニバーサル・ランゲージ」とかで、
表現されているものに近いと感じます。

ゾロ目の数字やご縁のある数字による判断というのは面白いですね。
私も時々やっています。
そう言えば、このブログの記事の投稿時間が、偶然ぞろ目でした。
スピリチュアルな人には、
確実に勘違いされて反感を持たれそうな内容なので、
削除しようかなとも少し思いましたが、
投稿時刻を見て、削除は止めておきました(笑)

『聖なる予言』は何度か読もうと思いましたが、まだ読んでいません。
『神との対話』は一通り読んだのですが、
実は、このブログの記事を書きながら、
ひっきりなしに脳裏に浮かんでいたのが、『神との対話』でした・・・
これは一般的に非常に評価が高く、
スピリチュアルな人が聖書化する書籍の一つですが、
なんとも腑に落ちないというか、自分の内的な事実に沿わない感じで、
何回読んでも一向に頭に残らない内容なのです。
この人は神を創ろうとしている?という思いが、
ぴこぴこ湧いてきます(笑)
そう言えば、ヘミシンクのモンロー氏が体外離脱した際に、
自称の「神」に遭遇して、
この先 何度も、こういう下らない存在にあうのだろうと、
うんざりする様な場面があったと記憶しています。

後光が見えたお話は、興味深いですね。
私も見え方は違いましたが、同じような経験をしたことがあります。
その人のいるところでは、その人だけがカラーで光り輝いていて、
それ以外の人や景色がモノクロになるという感じで・・・
結局、その人が私の自己否定的な感情を、
ほとんど無くしてくれることになったのですが。

ダウン症などについてのお考えには共感する部分が多いのですが、
それゆえに、カルマ論のような自業自得論のようなものは、
恵まれた人が、自分を正当化するために言っている部分もありそうで、
少々危険な面もあるように感じることが多いです。
2018-06-25 月 14:17:21 | URL | Korva [編集]
“ユニバーサル・ランゲージ(普遍言語?)”や
“感情は魂の言語”といった、
とてもしっくりと来る表現を教えていただきました。

『いつも何度でも』は大勢の方が素敵に歌われますが、
ナターシャさんによる弾き語りに私もとても感動しました。
まさに“普遍言語”“魂の言語”で為されている...
かのように響きました。

想像を絶する悲劇を知る者として、
同じ悲劇が二度と繰り返されないことを願い
全霊を込めてメッセージや歌(with演奏)
を通して《伝える》ナターシャさん。
特に、歌っているときの温かな笑みは、
「鏡は粉々に砕かれた…
 それは深い悲しみを伴ったけれども、
 その同じ鏡の上にも
《新しい景色》は必ず映されます。」
そんな確かな希望を信じさせてくれる、
そんな説得力に溢れていますよね。


子供の頃、予感や霊感によって難を逃れたお話・・・
数字に関連するお話・・・
『神との対話』についてのお話・・・
カルマ論・自業自得論についてのお話・・・

どれもこれもみな、解釈の仕方が自分とすごく似ていて、
「もっと詳しく聞かせて欲しい!」といった気持ちになり、
聞きたいこと&書きたいことが次々に溢れてきます。

今回はKorvaさんご本人より長いくらいのコメントを
た〜くさんのスペースを使わせて頂きながら、
いっぱい書かせて頂いてしまいました (*^▽^)/★*☆♪

Korvaさんが目に見えない系(?)のテーマで
いつかまた記事をアップされたとき、
自分のところで不思議系(?)の記事を
アップすることになったとき etc. に
今回の続きのやりとりを、是非また再開したいです。
説明しにくい体験をシェアし合うのを、
これからも楽しみにしています (*^▽^)/
2018-06-30 土 16:41:02 | URL | HeartLiberty [編集]
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