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"Korva"とはフィンランド語で「耳」という意味。なぜかスピーカーのことを考えてると幸せ。よい音とは何か、そして理想のスピーカーとは何かを日々考え追求しています。

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プログラミングが教えてくれたこと
Korva は、小学生の高学年の頃から、
コンピューター・プログラミングが好きでした。

元々は、コンピューター・ゲームを自分で作ってみたいという動機から、
コンピューター・プログラミングを始めたのですが、
今 思うと、この経験は、自分の人格形成において、
結構 大きな割合を占めているのではないかなと感じます。

子供の頃、Korva の家から一番 近くに住んでいたのがY君で、
幼少の頃から、Y君とはよく遊んでいました。
このY君は、ゲームとかパソコンとかラジコンとか、
そういう、マニアックなものが好きだったので、
Korva も自然と、そういうものに興味を持つようになりました。

のちに、Korva と同じく、体質的に肉を食べられないN君を加えた3人のグループで、
MSX という統一規格のPCを使って、それぞれが作ったゲームで遊んだり、
プログラムを批評しあったりということをしていましたが、
この3人が作ったゲームを見ていると三者三様で、
それぞれの個性や能力が、ゲームという作品に反映されていて、
とても面白かったですね。

プログラミング能力は、Korva が一番 優れていましたが、
N君は、Korva には思いつかない様な、
奇抜なアイデアのゲームを思いつくので、
Korva は密かに、彼に敬意を抱いていました。

一方、Y君は、自分でゲームを作るよりは、
市販のゲームをマニアックにやり込みたいタイプで、
色々なウラ技とかを知っていましたが、
プログラミングのほうは、
小規模でちょっとした習作的なものを作るといった感じでした。

そのうち、こうして作ったゲームは、
今は懐かしい「BASICマガジン」や「POPCOM」などのPC雑誌に、
投稿するようになりましたが、
N君とKorva の作品が掲載されたのは、良い思い出です。
ちなみに、N君は今でも、ゲーム・デザイナーとして活躍しているようです。

プログラミングによって、かなりまとまった数の
ゲームなりアプリケーションなりのシステムを、
自分で作った人には、感覚的に分かる話だと思いますが、
プログラミングにおいて重要になる能力は、
混沌の中から法則性を見つけ出す洞察力と、
物事を論理的に組み立てる思考能力です。
その他にも、物事を多面的に見る頭の柔らかさも、
一つの問題に対して、複数の解法を見つけたり、デバッグをする上で、
重要になるかもしれませんし、
昔のPCはメモリーの容量が少なかったので、
論理的な審美眼も、コンパクトで美しいプログラムを書く上では、
必要になりましたが、今では、これは個人的な嗜好の範疇かもしれません。

当時のKorva は、ゲームのアイデアよりも、プログラミング能力を高めることと、
優れたプログラムが持つ「論理的な美しさ」と「構造的な美しさ」に取り付かれていて、
ゲームを作るときも、構造的・論理的に美しいプログラムを書くことにこだわっていました。

今考えると、なぜあんなに熱中していたのか不思議な感じですが、
この頃は、寝ても覚めてもプログラミングのことを考えていたので、
いつも頭に鈍痛がありましたが、どうしても、
考えずにはいられない心理状態だったのでしょうね・・・
多分、現実逃避の手段でもあったのだと思います。

こういうゲームを作りたいと思って、プログラムを組むと、
まず、まともには動きませんね。

文法エラーなんかは、すぐに修正できるので、特に問題になりませんが、
一般的に問題になるのは、「バグ」と言われる、論理的なエラーです。

論理的なエラーがあっても、プログラムとしては一応 機能するのですが、
プログラマーが意図したようには機能しません。
この状態を、いわゆる「バグってる」状態と言い、
プログラマーが意図したとおりの動作をさせるために、
論理的なエラーを修正することを、
「デバッグ」又は「バグ取り」なんていう風に言いますね。

この「バグ取り」は結構 困難な作業で、
一つのバグ取りに何日も費やすこともありますし、
何日も考え続けた結果、結局バグ取りに失敗することも、
特に、プログラミング初心者の頃は多いですね。

バグ取りが困難なのは、
論理的思考力や洞察力が要求されるからですが、
こういう能力は、あまり学校の勉強では要求されないので、
なかなか鍛える機会が与えられません。

プログラミングに慣れていない頃は、
どこが間違っているのか、皆目 見当もつかない状態です。
なぜなら、頭の中に、論理的に思考する回路が十分に形成されておらず、
こういう回路が無いと、論理的エラーを見つけることができないからです。

論理的エラーを修正するためには、プログラムを何度も読み返して記憶して、
そのプログラムがどのように機能するかを、頭の中でシミュレートし、
どこに論理的な間違いがあるのかを、何日も考え続けているうちに、
頭の中に必要な論理回路が形成されてくることで、
どこに論理的な間違いがあるのかが認識できるようになり、
そこで初めて、論理的エラーを修正できるようになるという感じなので、
脳が物理的に変化するのを、考えながら待つという、
苦しい過程が要求されます。

こういうことを、何年もやっているうちに、
大体どんなプログラムも、自由自在に作れるようになりますが、
これは、プログラミング・テクニックの蓄積という、知識的・ソフト的な側面に加えて、
頭の中に、必要な論理回路が形成されることで、同じような論理的な間違いを、
再び犯しにくくなるという、ハード的な側面があります。

そして、自由自在にプログラムが組めるレベルに到達する過程で、
プログラマー自身も、自分の経験から、ある思想を抱くようになります。

それは、
「自分の思考は完全ではない。
 自分の思考を信じるな」
そして、
「自分に見えているのは一部のみで、全体を把握していない。
 自分の認識力を信じるな」
というものです。

なぜ、その様に考えるようになるかというと、
思考の過程において、自分が犯す論理的エラーは、
その時点の自分には認識できないということを、
繰り返し繰り返し、思い知らされるからです。

先ず、なぜ、論理的エラーを含むプログラムを、
最初に作るのかと言う問題がありますが、
それは、その論理的エラーを含むプログラムが、
その時の自分の論理的思考能力から見て、
正しいように感じるからです。

つまり、明らかに論理的に間違っていることを、
論理的に正しいと感じている場合が、
非常に多いということを、プログラミングを通じて、
幾度と無く経験するのです。

そして、なぜ、明らかな論理的エラーを、論理的に正しいと感じるのかですが、
これは、論理的に構成された全体像の、限られた一部のみしか、
論理的に把握できていないからです。

つまり、論理的に整合性を持って把握できる範囲が狭いために、
論理的構造物の一部と別の部分の論理的な繋がりが把握できず、
そこで生じている論理的エラーを認識できないのです。

なので、論理的に把握できる範囲が広がれば広がるほど、
洞察力が増すので、どこに論理的エラーが含まれるのかを、
見つけやすくなります。

つまり、自分の思考における論理的エラーと言うのは、
その時の自分からは見えず、
論理的思考能力の向上と、論理的認識力の拡大によって、
初めて、見えるようになるものだと言えます。

プログラミング初心者の頃は、
「このプログラムは絶対に正しいはずだ。
 なのに、なぜ正常に機能しないのだろう?
 さては、このパソコンに異常があるのでは?」
なんてことを考えるもので、
何日も、どこに間違いがあるのだろうと考えているうちに、
パソコンを叩き壊したいような衝動に駆られたりもしますが、
長くプログラミングをやっているうちに、ごく普通に、
「自分の論理的思考能力は完全ではない。
 バグっている以上、どこかに論理的エラーがあるのだろう。
 まぁ、じっくり考えることにしよう」
という風に、自然と考えるようになります。

昔のパソコンはシンプルだったので、
システム自体の不具合と言うのは非常に珍しく、
バグっている場合は、ほぼ確実に自分のプログラムのバグだったので、
安心して自分が間違っていると確信できましたが、
最近はシステムが複雑になりすぎて、
OSにさえバグがあるという事態になっているので、
自分のプログラムのバグなのかどうかが、
判然としないこともあるようです。

コンピューターが、自分の論理的間違いを繰り返し教えてくれることで、
「自分は、非常に間違いを犯しやすい存在である」
「自分は、明らかな論理的間違いを、間違いとして認識できない存在である」
「自分は、全体像のごく一部しか把握できない存在である」
という、自己認識に導いてくれることには、さほど抵抗が無いと思いますし、
プログラマーとしては、ごく自然な流れです。

しかし、そういう経験が少ない人は、
結構、自分の考えに自信を持っていることが多く、
「考える」ことが好きな人よりは、「学ぶ」ことが好きな人に、
そういう傾向があるかもしれません。

こういう人は、「正しい考え方」を学ぶことが好きですが、
その思想が含む論理的な間違いなんかは、特に気にしないようで、
自分が学んだ「正しい考え方」以外の考え方は拒絶して、
一種の思考停止による解決を求める人も多いようです。

元々、思想と言うのは、最低限、
徹頭徹尾、論理的な間違いや矛盾点が無く構成されて、
初めて、議論の俎上に載せることができます。

というのは、論理的な間違いや矛盾点を含むものは、
思想としては、根本的な間違いを含んでいるということを意味するので、
議論の対象にはならないからです。

そこをクリアーしてから、その次に、
事実に基づいているのか、
理念としてどうなのか、モラルとしてどうなのか、
法的にどうなのか、心理学的にどうなのか、
ということを議論できます。

「自分は何が正しいかを知っている」
と信じている人は、思考停止に陥りますが、
こういうタイプの人は、思考力とともに、謙虚さも無い人が多いので、
信念を共有しない人とは、なかなか話が通じないようです。

信念は、それを持つことで、
精神的な強さや安らぎが得られる側面もありますが、
それを持つことで、それに反する事実が見えなくなるという
強力なフィルターとしても機能するので、
精神的な牢獄という側面もあり、
持てば持つほど精神的な自由は失われます。

Korva は、スピリチュアル的な話や、宗教的な話も結構好きなので、
そういうサイトやブログもよく拝見するのですが、
そういう世界の人たちは結構、精神的な印象派の方々が多いようで、
美辞麗句や耳当たりのよい思想、一見すると美しい思想、
理性的に聴こえる思想などには、非常に弱く、
「天使の姿で現れる悪魔」を見抜くことが困難なようです。

悪魔が悪魔の姿で現れると、誰も耳を傾けないので、
「悪魔は天使の姿で現れる」のが普通なのです。

便宜的に「悪」という言葉を使いますが、
悪は、善意の人々の「無知」や「思考力の弱さ」を利用して、
勢力を拡大しようとします。

そういう善意の人々は、
自分は正しいことをしていると信じていますが、
実は悪の手先として、悪が活動しやすい世の中を作るための、
手助けをさせられている場合も、多いかもしれません。

一見すると、美しい思想や価値観に見えても、
みんながそれを信じると、悪が活動しやすくなる、
というものがあるのです。

なぜ、このようなことを書いているのかと言うと、
「印象操作」に対して、脆弱な意識構造を持つ人が、
非常に多いと、最近 強く感じるからです。

一般的に、人は、愛するものの幸福を願い、
憎むものの不幸を願うものです。

自分を愛してくれている人の助言は、
自分の幸福を願ってのことが多いので、耳を傾けるべきですが、
そうでない人の助言は、その人自身の損得勘定から、
ああしろ、こうしろ、と言っていることが多く、注意が必要です。

同じように、何かを愛する人が、それについて言うことは、
愛に基づいている場合多いですが、
それに対する愛の無い人が、それについて言うことは、
自分の損得勘定に基づいている場合が多いです。

もちろん、損得勘定が動機にある人が、
「私は自分の利益のために、これを言っているのです」
などと言うわけは無く、人々の善意に訴えかけるために、
説得力のある理由を色々と考えます。

そして、愛からものを言う人の意見に耳を傾けさせないために、又は、
自身の損得勘定からものを言う人の意見に耳を傾けさせるために、
いわゆる「レッテル張り」や「ラベリング」という印象操作が行われます。
レッテル張りによって、前者に邪悪なイメージを植え付け、
後者に善良で理性的なイメージを植え付けるという操作です。

この印象操作は、マスコミがよく使う手法ですが、
世の中を見ている限りは、非常に有効なようですし、
特に、「正しい考え方」を「学ぶ」ことが好きなタイプには、
絶大な効果があるようです。

一般的に、マスコミは、
「マスコミが知ってほしい事実」を報道し、
「マスコミが知ってほしくない事実」は報道しません。
そして、その「知ってほしい事実」については、
「このように考えてほしい」という意見によって、
特定の思想に、視聴者を誘導します。

少し思考力を働かせれば、「さにわ」できることが多いのですが、
ただの作為的な印象に過ぎないものを、
あたかも、自分の理知的な思考の結果として導かれた結論だと、
信じるように誘導されることで、
いとも簡単に、操作される人が多いのだと思います。

プログラマーが持っている信念の一つとして、
「考え続けていれば、いつか必ず答えは見つかる」
というのもありますが、長くプログラミングを続けている人ほど、
この信念を強く持っていると思います。

というのは、プログラミングにおいては、
思考の無い問題解決は存在せず、
思考停止は、すなわち、
問題解決の放棄を意味するからです。
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スピリチュアル | 12:12:29 | トラックバック(0) | コメント(18)
コメント
一時、N88BASICやDelphiにはまっていたので、プログラミングに例えた話は納得がいきます。

私の場合のミスは、フラグがどうセットされるかの見通しができていないことから起きることがほとんどでしたので、所々でフラグの数値を表示させてからクリック(エンター)で続きの動作をさせてさせてました。

でも、使い物になるプログラムはほとんど作れませんでしたが。

善意から始まったのに結果困ったことになったという、禁酒法、生類憐れみの令、なんていうものもありますから、善意の人たちも自分の運動がうまく進まなかった段階で軌道修正を含めて考えてくれたらと思うんですが、善意の人たちほど軌道修正をしようとしないのが問題なんです。
2015-08-05 水 17:46:18 | URL | kaneya [編集]
kaneyaさん、コメントありがとうございます^^

N88BASIC とは、また懐かしいですね!
PC-8801シリーズは憧れのパソコンでした。
パソコン黎明期の時代の「これから一体何が始まるのか」という
ワクワク感は素晴らしかったですね。

Delphi というのはオブジェクト指向の言語なんですね。
私がプログラミングしていた頃は、
まだオブジェクト指向という概念自体ありませんでしたが、
ある程度以上の規模のプログラムを作るようになると、
こういう風にプログラムを組み立てられれば楽なのになぁ
と思っていたやり方が、オブジェクト指向的な考え方でした。
あの頃は、メモリーの容量的にもCPUのスピード的にも、
それができませんでしたが・・・

悪にとっては、
「自分は善人で、他の人より正しく考えられる」
と信じている人に、表面的には美しくても、
結果的に悪がはびこる思想を信じさせるのが、
一番効率的なやり方だと感じます。

論理的に正しくないと上手く機能しないものを
常に作り続けている人は、
「人間はやたらめったら間違いまくる存在である」
というのは身に染みていますが、
割と文系の人はそういうことが身に染みていませんね。
「どういう風に考えても正解」という考え方がありますし。
2015-08-06 木 09:22:54 | URL | korva [編集]
精神的印象派!
デジタルの話でも、メンタルの話に結び付けて
掘り下げた記事。とても深い話で、感心しました。

>明らかに論理的に間違っていることを、
>論理的に正しいと感じているという場合が、
>非常に多い

人間は、自分は理性で生きていると思っていても、
案外、感情のほうが優っている場合があります。
物事を感情的に好悪で判断しているような場合には、
客観的、理性的、分析的に見ることができないので、
論理的に間違っているということが分からないのでしょう。
なので、
「正しい考え方」を学ぶことが好きなゆえに、
自分が学んだ「正しい考え方」以外の考え方は拒絶して、
一種の思考停止による解決を求める人も多いのでしょう。

私が以前所属していた教団でも、信者は極めて真面目でしたが、
そういう硬直単純な思考の人が多かったですね。
というより、自分で考えるのは駄目、教団の教えをそのまま
受け入れるのが謙遜で忠実なことだと教えられていました。
信念や信仰や倫理というのは美しいとされていますが、
必然的に偏った見方になりやすく、怖ろしさがありますね。

究極的には、の話ですが、
私は、善悪・正邪の絶対的な規準というものは
人間には判断できないのだろう、と思うようになりました。

たとえば殺人がなぜいけないことなのか?を考えると、
今にも沈みそうなボートで遭難していて、定員オーバーで、
大怪我でまもなく死ぬと分かっている男がいて、その男から
私はまもなく死ぬからわが子を助けるために私を捨ててほしい
と頼まれて、自分が舟からいなくなればその子供も助からない
というような特殊な状況を考えると、難しいものがあります。

人々は自分の真摯な倫理観に基づいて行動しているがゆえに
自爆テロや宗教戦争などの《悪》が起きているのでしょう。

いま私は、ひと様に迷惑をかけない限り、という条件付で、
人は基本的に何でも自由にしていいはずだと感じていますが、
他の人に迷惑を掛けるとはどういうことか、という判断も、
厳密に考えるとなかなか難しいものがあります。

>「印象操作」に対して、脆弱な意識構造を持つ人が、
>非常に多い
この言葉にはドキッとさせられました。

2015-08-06 木 11:27:17 | URL | ☆バーソ☆ [編集]
☆バーソ☆さん、コメントありがとうございます^^

バーソさんのブログの記事は全て読ませていただきましたが、
バーソさんも、宗教的に手痛い経験があるようで、
勝手に親近感を感じております(笑)

私の場合は、一般的なカトリック教会に通っていましたが、
どうしても、あるところまで来ると、思考停止と鵜呑みを求められ、
こちらが疑問に感じてることには一切答えない(答えられない)という感じで、
宗教と言うものの存在意義に非常に疑問を抱かせる経験でした。
非常に真面目に考えて真摯に取り組んでいただけに、その失望感たるや・・・
まぁ、向こうも、鵜呑みにしない人には用が無いでしょうけど。

でも、キリスト教的な
愛と許しに基づいた価値観・倫理観というのは、
私の美意識からすると結構好きで、
カール・ヒルティーなんかの影響は結構受けましたし、
価値観・倫理観としては、万人に分かりやすい普遍性があって、
結構 よいのではないかぁと、今でも思っています。
もちろん、キリスト教がよいという意味ではなく、
イエスの思想が、と言う意味ですが。

そして、そういう価値観・倫理観を持っていたがゆえに、
その後、自分の魂が救われたと実感できる経験もあるので、
人生には無駄が無いのかもしれないなとも思います。

>究極的には、の話ですが、
>私は、善悪・正邪の絶対的な規準というものは
>人間には判断できないのだろう、と思うようになりました。

私も同じような感じです。
「究極的には解らない」というところに、
個人の自由意志の余地があるのかなとも思います。
2015-08-06 木 16:24:16 | URL | korva [編集]
Korva さん、こんにちは^^
興味深く拝読しました。

Korva さんが素晴らしい思考力を身に付けていらっしゃるのは、コンピューター・プログラミングを徹底して行っていらしたからなのですね。間違いがあると、意図したとおりに作動しないというように、明確な形で分かる分野は良いですね。文系の分野は、救いようがない状態です。

本当は哲学という学問だと、「論証」ということが必要で、皆やっているはずなんですけれどね・・・。論理的整合性を求めて、どこかに何か矛盾が見つかったら、それを取り込んで解消できる新たな論を作り直さなければならず、そのために議論もしているはずなのですが、無理やりこじつけて、形だけ論じたことにして終わらせる専門家が多いです(こんな話をさせて頂くのは、私自身が今もこの業界の一員だからですが・・)。しかも、自分がイメージしたり、空想したりした事を主張するために、こじつけます。「こじつけ」も、ごく狭い範囲では「理屈」なので、自分で「こじつけ」を「こじつけ」と気付かない場合もありますね。勝手なイメージではなく、事柄が「分かる」という事が起こらないと、論理的整合性のある話にならないと思うのです。

でも、「分かる」と言っても、それ一つで終わるわけではないし、特にこの世の事は常に変化していますからね・・。基本的に言って世界は無限で、自分に見えていないものだらけなのでして、その無限で不可知の世界を、特定の有限な切り口で切って見たものが、自分の考えとか、自分の世界観というものだと思います。中には、前提からして怪しくて、そこで切って見ない方が良いだろうという切り口もありますね。特に、人の損得勘定に基づいた切り口で世界を見ていると、ものを考えたり理解したりすることが、出来なくなるのではないかと危惧します。

善意の人々が、美しいイメージに踊らされることは、残念ながら、よくありますね。善人であろうとするなら、善と偽善を区別しようという良心を持ってもらいたいなぁ、とつくづく思います。

今の巷の言論空間は、「論」とか「思想」とか言えないようなもので溢れ返って混乱していますね。Korva さんのような主張をする方がいて下さるのは、非常に嬉しいことだと思いました。

すごく長文になってしまって、すみません。
2015-08-07 金 23:03:57 | URL | Ariane [編集]
読みました
 強靭な理性と、豊かな感性と、優れた直観力を兼備えたパーソナリティーを目指されると良いですね。
2015-08-08 土 09:00:57 | URL | 666 [編集]
Arianeさん、いつもコメントありがとうございます^^

ITの分野も、明らかにエラーがあると分かっていて、
なおかつ一流のプロが束になった考えても、
どうしてもそれが修正できないということもあって、
そこに人間の思考力と認識力の限界があるのだと思います。

なので、人間は、その有限さゆえに、
どうやっても、間違うようにできていて、
学問の分野でも完全に間違いを排除することは、
よほど範囲を限定しない限りは、不可能なのだと思います。
人間は、論理的に整合性を持って把握できる範囲が非常に限られているため、
規模が大きくなるほど、どうしても混沌とせざるをえないのだと感じます。

「損得勘定」というのは、比較的 利他的な心情を「愛」と言ったとき、
相対的に利他的でない心情を、対比して表す場合に、分かりやすいかなと・・・
愛も掘り下げると損得勘定かもしれませんし、
損得勘定も掘り下げると愛かもしれないので、
ちょっと不適切だったかも知れません。

私がキリスト教の勉強をしていたときも、
自分の理性を自分で騙すために、「こじつけ」をよく考えていました。
その「こじつけ」を正当化するための「こじつけ」も・・・
自分で自分を閉じ込めるための「柵」を作っているようにも感じましたし、
自分で自分が入る「墓」を作っているようにも感じました。

イエスが言っていることは理性的に納得できても、
それが宗教と言う形態を取るときは、
どうしても利己的なものや虚偽的なもの偽善的なものや、
精神の自由を妨げるものなどの、理性に反するものを含むので、
それを正当化するための、「こじつけ」なり「思考停止」なりが、
自主的な努力として求められるのだと思います。

私を含む多くの人は、自分自身の思考を通じて真理に到達するより、
権威があって正しそうに見える誰かの思想を、自分の思想とすることで、
楽をしてゴールにたどり着きたいのだと思います。
2015-08-08 土 11:50:13 | URL | korva [編集]
666様、コメントありがとうございます^^

なかなか難しい目標で、上には上がいるので、
自分がそうなれたと感じることは無いでしょうが、
より良い自分になれるように頑張りたいと思います。
2015-08-08 土 11:56:02 | URL | korva [編集]
Korva さん、すみません^^;
上のコメントに「人の損得勘定で・・・」と書きましたが、「人」を「他人」と書かないといけませんでした。他人が自分の利益のために意図的に作り上げている筋立てを、客観的に正当なものとして取り込むのは、やめた方が良いという意味で・・。

Korva さんが、比較的利己的な心情と比較的利他的な心情とを「損得勘定」と「愛」として対比されたことは、全く不適切だとは思いませんし、上の記事はとても分かり易かったです。「愛」という場合、「損得勘定」と違って、「何が本当に善い事か」という問いに、常に開かれているところがあるような気もします。Korva さんが、「愛も掘り下げると損得勘定かもしれない」とおっしゃるのは、「愛」も、その人の為になることを考える、というような意味でしょうか?
2015-08-09 日 18:07:32 | URL | Ariane [編集]
Arianeさん、コメントありがとうございます^^

「他人が自分の利益のために意図的に作り上げている筋立てを、
 客観的に正当なものとして取り込むのは、やめた方が良い」

同感です。
マスコミがしていることも、
他人が自分の利益のために意図的に作り上げている筋立てを、
客観的に正当なものとするための操作が非常に多いと感じます。

自分の子を死地に送りたくないという親の気持ちは愛といえます。
しかし、キリスト教の教義では、神は人類救済のために、
自分のひとり子であるイエスを死地に送ったことになっています。
この場合、自分の子に対する愛という観点から見ると、
神は愛の無い酷い親と言うこともできます。

より私心のある愛から見ると、
より無私な愛は愛以外のものに見える場合が多いと感じます。
それは、愛を含む愛でないものは、
愛を自分の利益を侵害する恐ろしいものと感じるからだと思います。
より無私な愛は自己犠牲的なものを含む場合が多いので、
より無私でない愛は、それが自分に課せられるのを恐れ、
より無私な愛を、愛ではない醜いものと感じることがあるのだと思います。
そういう恐れがある場合には、
自分より無私な愛をもつ人の意図と言うのは、
より私心のある人からは醜化されて解釈されるのだと思います。

物事を美化すべきでないと言うのはよく聞きます。
それは、美化すると事実に反するからですが、
そういうことを言っている人たちは、
物事を醜化することにはとても熱心だったりします。
2015-08-10 月 09:25:26 | URL | korva [編集]
こんにちは^^
非常に興味深く読ませていただきました。

私も若い頃、BASICで簡単なプログラムを
走らせたことがあります。

たしかに、エラーがでるたびに
考えさせられましたね( ^ω^; )


このプログラミングの修正作業から
人間の本質的な問題への
korvaさんの洞察力と表現力、
読ませていただいて
すごいと思いました。

たしかに、korvaさんのおっしゃるとおりです。

自分は正しいことをしていると信じていて、
実は悪の手先になってしまっているというのは
多々あると思います。
その多くの場合は、正しいと信じ込み
思考停止に陥っている傾向がありますよね。

私自身も、しっかり洗脳されて生きている一人
だと思っています。

ですので、もしも、私の洗脳を解こうとして
何かメッセージをくださる方がいらっしゃれば
謙虚に耳を傾けようという気持ちはあります。


2016-11-03 木 16:50:23 | URL | 坊主おじさん [編集]
坊主おじさん、コメントありがとうございます^^

駄文を褒めていただき、気恥ずかしいですが、
ありがとうございます。

人の洗脳を解いてやろうなんて、おこがましい気持ちはないですし、
実際に、私にはそのような能力はありません。

自分と意見の違う人の話を聴くのが好きですが、
自分の方が間違っていたということがしょちゅうあるので、
もともと、人の意見を正してやろうという気持ちよりは、
少し議論して、自分の間違いを見つけたいという
気持ちの方が大きいかもしれません。

私は、自分の強固な信念や思い込みが、
ガラガラと崩れていくときに、
非常な快感や晴れやかさを感じる傾向が強いで、
そういうものを、どんどん崩していきたいのです。

恐れや願望があると、ありのままの事実が見えなくなると思います。
スピリチュアリストは、自分の魂が消滅してしまう恐れや、
死後、天国に行きたいという願望がありますが、
私が悪魔なら、そういう恐れや願望を利用して、
人々を操作しようとすると思います。

しかし、自分の魂が消滅しても、
それを残念に思う自分はいませんし、
天国と言われているところも、
昔、マスコミが「地上の楽園」ともてはやしていた、
北朝鮮のようなところかもしれません。
スピリチュアリスとは、大体 左派ですが、
左派のみの世界だと、あのような世界になるでしょうから。
2016-11-04 金 11:44:28 | URL | Korva [編集]
こんにちは part2
こっちにお邪魔しちゃいました。

「少し思考力を働かせれば、
『さにわ』できることが多いのですが、
ただの作為的な印象に過ぎないものを、
あたかも、自分の理知的な思考の結果
として導かれた結論だと、
信じるように誘導されることで、
いとも簡単に、
操作される人が多いのだと思います。」


そのような操作を
簡単にされないことのメリットは
「しあわせ」 だと感じるその感じ方が
「人との比較に基づかない」 とも
言えるのかなあ・・・と。
Korvaさんの言葉の
「精神的な自由」
にも繋がるものなのでしょうか。

操作されやすい心の状態は
「人が自分をどう評価するかで
ハッピーの量が増えたり減ったりしやすい」
ようにも感じられます。


Korvaさんのこのブログも
いろいろなことを思い出させてくれますが、
今日は、Korvaさんが☆バーソ☆さんへの
コメントに書かれていたこととの関連で
私も少しシェアしたいと思います。


夫が職場でお世話になっている人
からの強い勧めで、
渡米半年後から1年半の間、
キリスト教の教会(プロテスタント)に
家族みなで通った経験があります。

Korvaさんや☆バーソ☆さん
(☆バーソ☆さんの方がもっと?)ほど
私は “手痛い思い” とは
ならなかったと思いますが、
それでもKorvaさんの

「どうしても、あるところまで来ると、
思考停止と鵜呑みを求められ、
こちらが疑問に感じてることには
一切答えない(答えられない)という感じで、
宗教と言うものの存在意義に
非常に疑問を抱かせる経験でした。 」



というお気持ちが良く分かる経験をしました。


「誘われたのを機に、教会というところが
どういうところなのか体験してみよう。」
といった、お叱りを受けそうな動機でした。
手痛いとか失望感より
「集団の作られる場所は
どうしていつもこうなってしまうんだろう・・・。」
そんな思いでした。



「体験談をシェアしあう場」 ということで
「あなたも是非体験談を!」 と強く求められ
直感的に “躊躇する気持ち” が強く湧いたのですが、
結局、断り切れずに場違いにも
「西洋医学が治せない病気を
病院に行かずに治した話」
を教会員の前でシェアしてしまったのでした。

牧師さん(特に白人の牧師さん)を始め、
みなさん急に表情が固くなってしまい、
その後、話題は他のものへと移りました。

それ以降は表面的・日常的な話題に
終始した感じでした。
「いつのタイミングで辞めようか。」
との距離感が存在したことで
自分自身はこの程度の失望で
済んだのだのかなあ、とも感じています。

私に対する違和感ゆえ、
むしろ礼儀正しくしてもらえた・・・?

辞めてしばらく経ってからでしたが、
自分の通っている教会に
すっかり心を許した知人が、
牧師に悩みを打ち明け
何段も何段も高いところから
人格を地まで落とされ
とても傷ついた思い出話をしてくれました。


「人生は偶然の積み重ね
というのはよく聞きますが、
単なる偶然と言うよりは、
意味ある偶然の積み重ねだと感じます。
非常に意図された偶然というか、
巧妙に仕組まれた偶然というか・・・

特に、誰と出会って
どういう経験をするかということについては、
単なる偶然ではなく、
何かしらの意図された計画と言うか、
生まれる前に、
あの世での打ち合わせのようなもの、
または、集合無意識の領域での
打ち合わせのようなものが、
あるのではないかと感じています。」


これは、私の思いととても良くシンクロする
Korvaさんの言葉です。
(別のブログからの引用ですみません)
2016-11-05 土 11:29:16 | URL | HeartLiberty [編集]
HeartLibertyさん、コメントありがとうございます^^

HeartLibertyさんも教会で、がっかりした経験があるのですね。
どうしても、集団には、その集団のルールがあり、
そのルールを守らなければならないのですが、
特に、善悪が問題とされる場所では、
違う意見を持つ人というのは、悪でしかないようですね。

私は、一つの事柄を色々な視点で見ることが好きで、
場を面白くしようとして、サービス精神から、違う意見を言って、
場を凍りつかせることがよくありました。
しかし、そういう場所は、意見を統一し、信念を固めるのに、
役立つ意見を、みんなが述べる場所なので、
考えてみれば、余計なことをしていたものです(笑)

私も、自分の不思議な体験を、神父さんに話したとき、
少し嫌そうな表情になり、
「精神病の人にも、そういうものが見えることがあるようですよ」
なんてことを言われました。
でも、そういうことを言い始めたら、
聖書なんかは、初めから終わりまで、そういう話ばかりで、
精神病の人たちの話でしかないわけですから、
宗教自体、精神病の人の言葉を信じる団体ということになりますが、
どういうふうに、自分の中で整合性を保つのでしょうね?

なんにしても、集団と言うのは、そこにいるためには、
ある程度、思想的に、みんなと同じにならなければならない、
少なくとも、そういうふうに振舞わなければならないので、
かなり、思想的な自由が奪われ、真実の追究という観点からは、
マイナスになる場合が多いと感じてしまいます。
2016-11-06 日 09:55:40 | URL | Korva [編集]
おはようございます!
ほんとうに、ほんとうに・・・

うん、うん、うん、と
Korvaさんのコメントのいちいちに
首を縦に振りながら読みました。

「善悪が問題とされる場所」
というときの “善悪” が、
小我(自分のエゴの視点)から見たものか
大我(宇宙的な視点)からのそれなのか・・・
そこで取り沙汰されている善の中に
自分さえ良ければ、というエゴを見るとき
Korvaさんは
何か言いたくなっちゃうんじゃないですか?
(クールなようで内側は熱血漢?)


私も、アメリカで教会に通っているとき
常に感じていた疑問は
「聖書の中のお話は
『意識は物質化する話』の
オンパレードなのに、
そんなことを真面目に信じている人は
教会員に誰もいなかったこと。」でした。

そんなことをある意味 “当たり前のこと”
と感じている人間の通える場所ではない・・・?
そんな思いが心を満たし始めました。
そして、とても競争的(サバイバル的?)な感情が
その場を支配しているようにも感じられました。

神父さんが、ご自身の知らない世界
を知っているKorvaさんのことを
精神病とか非科学的といった括りに
入れようとするのは、
必死になって「魔女狩り」をした
人たちの心理と似ていますね。



「思想的な自由」・・・
一番失いたくないものかもしれません。
思想的に不自由になることは
まちがったプライド(メンツ?)を
「失うまい。失うまい。」と
一生懸命に守りに入ってしまう人生に
なってしまうような気がするから・・・。

私だったら酸欠状態に陥って
アップアップしてしまうと思います ヾ(;´▽`)ヾ
2016-11-12 土 07:29:00 | URL | HeartLiberty [編集]
HeartLibertyさん、コメントありがとうございます^^

そう言えば、信者さんたちは、聖書を信じていないようでしたね。
信じられないので、偶然とか、単なる自然現象とか、思い込みとか、
何とか合理的な解釈をしようとしていました。
私は、そういう不思議なことでも、普通に起こりえることだと感じるので、
そういう部分でも、意見の相違というのがありました。

どちらかと言えば、私の方が、聖書の立場を肯定しているのに、
神父さんには、みんなの意見に合わせないことで、
「傲慢」だとか言われましたが・・・
まぁ、神父さんといえども、聖書に肯定的ではあっても、
マイノリティーの味方をするわけにはいかないでしょうが・・・

善悪というのは、自分の立場から見て、都合の良いものを、
正しいと感じているだけのような気がします。
キリスト教も、実際に学んでみて、
無数にあるバリエーションの一つに過ぎないと感じましたが、
あらゆるスピリチュアリズムも、
無数にあるバリエーションの一つに過ぎないと感じます。
実際の世界の姿を見極めたいのではなく、
自分に都合の良い「あるべき世界」を絶対化したいのだと思います。
本当の正義を追求しているなら、
ダブルスタンダードにはならないはずですが、
私の知っている限りでは、全てのスピリチュアリストは、
ダブルスタンダードで、誠実な議論は不可能だと感じます。

私も、「精神の自由」というものに、大きな価値を置いています。
スピリチュアリストは、結構 権威主義的で、
神とか、高級霊とか、進化した宇宙人とか、
人間を超える存在の言うことには、非常に弱くて、
言っていることの内容は、一々検証しませんね。
作者以外に、そういう、神とか、高級霊とか、進化した宇宙人に
会った人がいない場合は、
単なる物語である可能性が高いと思いますが、
そういうものでも、絶対化しようとします。

そして、心の中に、必ず、絶対化された領域を作っていて、
絶対善や絶対悪など、検証してはいけないものを心の中に持ち、
その領域を拡大し強化しようとしますね。
これは、精神の自由とは逆の方向ですが、
特定の価値観(自分に都合の良い価値観)において、
優れた存在になりたいという気持ちが強いのかもしれませんし、
自分が優れたものであることができる世界観を、
手放したくないのかもしれません。
2016-11-13 日 11:43:11 | URL | Korva [編集]
おはようございます。
Korvaさんが精神的自由というものに
価値を置いておられること、
Korvaさんご自身がお幸せですね!
よかったー。
まず自分が幸せでないと
見えて来るものが
その波長と合ってしまう気がします。
「精神的自由がもっとも失いたくないもの」
だと思うのは、
それが一番の理由かもしれません。



Korvaさんのよく使われる言葉である
“スピリチュアリスト”ですが、
かつて私の心に留まった言葉
”スピリチュアリティ・アロガンス”
(spirituarity arrogance)
と似た意味でKorvaさんはその言葉を
使っておられるのかなあ・・・?と。

spirituarity arroganceというと、
多分私が感じるには
スピリチュアリズムという考え方を
「自分を人より優位に立たせるための道具」
にしたい心理を言うのかなあ・・・?と。



”スピリチュアリズム”という言葉自体に
非常な違和感を覚えるという
とても親しいお友達たちが
アメリカにも日本にも(若干名ですが)います。


私自身、自分をどんな括りでも
縛ってはいないつもりですが、
彼ら(&彼女ら)も私の考え方には
少しも違和感は覚えないと言い、
「とても共感できる」と言います。


それで思ったんです。
そういった友人たちが
Korvaさんの言う"スピリチュアリスト"
(私の言う"spirituarity arrogance"?)
にあれほど強い違和感を持つのは、
Korvaさんが言うように
彼らが好んでする話は
“実体験を伴わない単なる物語”
と感じるからかもしれない・・・
その話の中に
不誠実さを感じるからかも知れない・・・と。


友人たちは昨今のスピリチュアリズムを
由々しく思っているにも拘らず、
皆に共通しているのは
人生における霊的体験です。
しかもどれもが、
「深い感謝を伴う
ようなタイプの霊的体験」

といえるようなものです。


逆に
「スピリチュアリティが自分の信じる考え方」と、
そのカテゴリーにご自身を
ハッキリと属させている方々の方が、
感謝を伴う霊的体験を
実はされていなかったりします。

「(表向き)寄って立つ信条」というものは
ちっとも当てにならないと感じます。



私は「出会い」ほど
人生の中で面白いと思っているものはありません。
悲しみや不愉快さを伴う出会いですら、
自分が敢えて引き寄せていると
感じないではいられないんです。

Wow! Korvaさんのスペースを使って
今日もこんなに書いちゃいました。
Korvaさんも良き週末を。
またいつかお邪魔しますね。
2016-11-18 金 09:18:57 | URL | HeartLiberty [編集]
HeartLibertyさん、コメントありがとうございます^^

spirituarity arrogance というのも、
私がスピリチュアリズムに対して、
否定的になる理由の一つです。

スピリチュアル本を読めば読むほど、
自分が賢くなったと感じる人は、
そもそも読み方を間違えていると思いますが、
大抵はそう感じるようになります。

これは、私個人の偏見ですが、
スピリチュアル本には、ところどころ、毒が隠されていて、
結果的には、賢くはならずに、愚かになると思っています。
賢くなったと感じるようになることも、非常に大きな毒の一つですが、
経験によらず、単なる知識によって、
一般的ではない価値観や思想を持つようになることも、
当人の人間性にもよりますが、
大抵は毒として機能するようになると感じます。

面白いことに、賢くなったと感じることと引き換えに、
実際の賢さを捨てなければならなくなりますし、
他の人より高度な精神を手に入れたと感じることと引き換えに、
より低級な精神にならなければならなくなります。

霊的な世界にも、カルト宗教の教祖のようになりたい存在がいて、
そういう存在が、スピリチュアリズムの背景に隠れているような気がします。

「考えるな、感じろ」というのがありますが、
これは、そういう存在に、自分の魂を売り渡す前段階的なものだと思います。
思考の自由がなければ、精神の自由もありませんから。
正しいと決められた思想や価値観の中で、
みんなで仲良く同じことを感じているだけです。

一般的にスピリチュアル本は、同じ思想的な傾向・方向性があり、
そこから受ける心理的な影響も、特定の傾向があります。
そして、この特定の傾向というのは、
実際の経験から得られる価値観や思想が持つ傾向とは、
往々にして、逆の傾向だと感じます。

HeartLibertyさんの言う、
「深い感謝を伴う
ようなタイプの霊的体験」
というのは、私も何度かありますが、
こういう経験をすると、
「事実」に基づいて考える傾向が強化され、
自分にも、異質な他者にも世界に対しても、
肯定的な観念を抱くようになり、
事実に基づかない思い込みが減っていきますが、
こういう経験のない人がスピリチュアリズムを学ぶと、
事実を無視して「願望」に基づいて考える傾向が強化され、
結果的に自我も強化されます。
そして、同じ思想や価値観を持たない人や世界に対して、
否定的な観念や感情を抱くようになり、
事実に基づかない思い込みも増えていくので、
ありのままの事実を見ることができなくなり、
事実を認識することを偏見だと感じるようになり、
事実に反することを信じることを、
正しい認識だと感じるようになります。

まぁ、全て私の勝手な偏見なので、
軽く読み流してください(笑)
2016-11-19 土 12:33:15 | URL | Korva [編集]
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まとめ