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Korva

Author:Korva

コルバのブログへようこそ♪
"Korva"とはフィンランド語で「耳」という意味。なぜかスピーカーのことを考えてると幸せ。よい音とは何か、そして理想のスピーカーとは何かを日々考え追求しています。

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シンクロニシティー
最近 気分が欝っぽくて、こういう気分のときは、
なぜか理屈っぽい文章が書けないので、
ブログもHPのほうも更新が滞りがちです。

他の方のブログで、
シンクロニシティーについての記事を読んでいて、
色々と感じることがあったので少々・・・

シンクロニシティーと言うのは、
最初にユングの唱えだした概念だと思いますが、
一言で言えば、「意味ある偶然」のことです。

korvaはよく、スピリチュアル系のブログを拝見するのですが、
ある問題について考えながら、スピリチュアル系のブログ゙を覗くと、
その日の記事が、正にその問題の話だったりすることがよくありますし、
テーマだけではなく、話の内容自体、自分の考えてることと同じだったりします。

これは、テレパシー的な現象なのか、波長の法則で、
似たもの同士が引き寄せられる現象なのかはわかりませんが、
なかなか興味深い現象ではあります。

Korvaは子供の頃から、自分の考えていることが、
他の人に筒抜けになっているような感覚があるのですが、
ふと思い浮かんだことを口にすると、
相手が、今ちょうどそのことを考えていたということもよくあります。
特に、性格の似ている人だと、そういうシンクロ現象が多くなる気がします。

そういえば、学校の先生が家庭訪問で家に来たとき、
母が、「この子は人の考えを読むんですよ」なんて言ってましたが・・・

ユングによれば、人の意識は顕在意識、無意識、集合無意識に分けられ、
集合無意識の領域では、他の人とつながっていると言う話なんですが、
どうもこれは、個人的な印象だと、荒唐無稽な話でもないだろうなと感じます。

もしかすると、Korvaのように、言語的な思考をあまりしないタイプの方が、
無意識の領域と、つながりやすかったりするのかもしれません。

話は変わって、Korvaが好きな歌手の谷山浩子さん。
彼女は、彼女自身も、彼女の歌も、
マスコミへの露出頻度が非常に低いのですが、
なんとなく、ラジオを付けてみたら彼女が出ていたとか、
彼女の歌が流れていたとか、
彼女のコンサートの録音を放送する予定日の告知をやっていた、
とかいうことが、以前はよくありました。
Korvaはラジオを聴くこと自体が珍しく、
彼女がしょっちゅうラジオに出てるわけでもないので、
こういうことが続くと、ピンポイント過ぎて妙な気分になりました。

おかげで、「101人 屋久島コンサート」など、
非常に貴重な音源も録音できましたし、
特に、彼女の歌の中でも一番好きな「恋人の種」は、
アルバムに入っているものよりも、ずっと好みだったので、
それこそ、テープが擦り切れるほど、毎日何回も聴いていました。

で、ピンポイントといえば、もうかなり昔の話ですが、
ある日 TVをつけて、なんとなくチャンネルをNHK教育に合わせたところ、
「みんなの歌」の製作の様子を紹介する短い番組をやっていたのですが、
それに谷山浩子さんが映っていて、目が点になりました。
そのときに初めて、動く彼女の映像を見たと思います。

今ではYouTubeなどで、いくらでも動く彼女の映像が見れますが、
当時はそういうものがなかったので、非常に貴重な感じでした。
彼女のビデオ、「谷山浩子コンサート with ねこ森アンサンブル」
も廃盤でしたし・・・

その番組では、少し大きなテーブルに何人かの人がいて、
何かの会議しているような様子だったと記憶しています。
こちらが谷山浩子さんです、という紹介があったわけではないので、
絶対にそうだとは言えませんが、多分そうでしょう(笑)

基本的に彼女がTVに出ることは、ほとんどありませんし、
Korvaが毎日、一日中、教育TVを監視してるわけでもないので、
これは確率的には、相当低いはずです。

どうも、人間は、五感では認識できないところで起きている事象についても、
無意識的に、察知できる機能が備わっているのではないでしょうか。

しかし最近は、ネットで好きなときにいくらでも見られると言う意識があるせいか、
この手のシンクロニシティーが、なかなか起きないようです。

ちなみに、果てしなく、どうでもいい余談ですが、
「人類ネコ科」という漫画に、
谷山舞奈(たにやま まいな)というキャラクターが出てくるのですが、
このネーミングには、ちょっと失礼な意味があるようです。
この漫画の単行本に、言葉は正確ではありませんが、
「谷山さんがマイナーだと言う意味では決して決して・・・谷山さんごめんなさい!」
というような話があったと記憶しています。

それで思いだしましたが、
ある人と雑談していたとき、好きな歌手の話題になり、
どうせ知らないだろうなと思いつつ、谷山さんの名前を挙げたところ、
「それはまた、随分マイナーな・・・」
という、ストレートな感想が返ってきて、
ファンとしては、一応 知られていて嬉しいような、
悲しいような、妙な気分になったとがありますが・・・
今よりネットが普及していない頃だったので、
まぁ、知っているだけでも相当 珍しいんですけどね。

「え~!知ってるんだ、びっくり。好きな曲とかある?」
「歌の方は聴いたことないんですけどね~」
「へ~そうなんだ。じゃあ何で知ってるの?」
「ふふ~ん♪ どうしてでしょう?」

今 推測するに、谷山さんのエッセイ、
「浩子の半熟コンピュータ」を読んだのであろうと思いますが・・・
確か当時は、PC雑誌で連載中だったはず。
谷山さんは自分のマイナーさを、よくネタにしてましたから。

hanjukucom


上は、2冊も買ってしまった「浩子の半熟コンピュータ」
まぁ、似てるんですけど、どうせなら、もう少し美化すべきかと・・・
この本は、コンピューター黎明期の頃の懐かしい話があったりと、
8ビット世代としては、なかなか楽しめました。

しかし、実家の方に置いてきたので、こっちでは読むことができなくて、
また読みたいなーと思っていたところ、たまたま、
ブックオフで状態の良いものが105円で売っていたので、
もう一冊買ってしまったのですが、
ブックオフに谷山さんの本があるのも結構 珍しいのです。

最近は、ネットの普及で、
谷山さんの情報に簡単に接することができるので、
以前よりは、知っている人が増えたような気がしますが、
増えているのは情報量だけだったりして・・・

で、シンクロニシティーに話を戻すと、
ある昔の友人について、彼は今頃どうしているのかなぁ、
などと考えながら、ブックオフをブラブラしながら、
ある本を手に取り、ペラペラとページをめっくていたところ、
偶然、彼の書いた記事に遭遇して、
彼のそのときの状況などを知ることができた、ということがありました。
ちなみに、彼は物書きではないので、世の中に彼の書いた記事が、
ありふれているわけではありません。
おそらく、そのブックオフで、彼の記事はそれだけでしょう。

これなんかは、ピンポイント過ぎて、
確率的に考えると、まずありえない話なんですが、
こういう不思議なことって、ちょくちょく起こってませんか?

人生は偶然の積み重ねというのはよく聞きますが、
単なる偶然と言うよりは、意味ある偶然の積み重ねだと感じます。
非常に意図された偶然というか、巧妙に仕組まれた偶然というか・・・

特に、誰と出会ってどういう経験をするかということについては、
単なる偶然ではなく、何かしらの意図された計画と言うか、
生まれる前に、あの世での打ち合わせのようなもの、
または、集合無意識の領域での打ち合わせのようなものが、
あるのではないかと感じています。


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スピリチュアル | 08:18:17 | トラックバック(0) | コメント(14)
さよならブラックバードの後書き
考えているだけでも、少し心が荒んでくる記事を続けて書いてしまったので、
今回は、ネットで読んで、じんわりと優しい気持になった、
景山民夫氏の『さよならブラックバード』の後書きの一部を紹介させていただきます。

彼の著作は、十代の頃、『遠くの海から来たCOO』とエッセイ集を読んだくらいですが、
今となっては、内容を思い出そうとしても、なかなか思い出せません。
でも、この短い後書きの一部は、ずっと記憶に残りそうです・・・




僕はいまから八年程前に長女を亡くしました。

彼女は生まれたときから重い障害をもった子供で、
十八年間の人生の中で一度も自分の力でベッドから起き上がることが出来ない生活を送り、
そして死にました。

生まれてすぐからミルクが巧く飲めず、いつまでたっても首が据わらないままで、
やがて視力が、そして聴力が失われ、身体の発育も健常児に較べればずっと悪く、
四肢の関節は曲がり、自分の手で食事を摂ることも出来ないままで生涯を終えました。

最後の七年間は親戚の経営する病院に入院し、
僕自身は仕事が忙しかったせいもあって、月に三、四度病院に見舞いに行くのが精一杯、
という状態で良い父親とはいえなかったかもしれません。

それでも見舞いにいったときに天気がいいと、
僕は娘を抱いて窓際に連れて行き、太陽の光を浴びさせてやることにしていました。

すると、視力のないはずの彼女が、光を感じ取ってさも嬉しそうにニッコリと笑うのです。
目は見えなくとも光を感じ取る事はできるのです。

それは父親である私にとっても至福の時間でした。

さて、ここからはちょっと不思議な話になります。

急な死だったために、僕があわてて病院に駆けつけたのは死後一時間ほどしてからでした。
娘は既に冷たくなっていて、一八歳にしてはずいぶん小さな体をベッドに横たえていました。

その夜、通夜が営まれ、お棺に入れられて祭壇に安置されている娘の遺体を目にしたとき、
僕はなぜか「あ、もう肉体から魂が抜け出してしまっている」と感じたのです。

ふと祭壇の上の方を見ると、そこに娘がポコンと浮かんでいました。
それは、生前の肉体の姿ではなく、白く光る玉のように僕の目には見えました。

無事にお通夜を終え、僕は翌日の葬儀に備える為に教会の駐車場にあった車に戻りました。
車のエンジンをかけたときに、僕は助手席に死んだ娘がいる事に気がつきました。
さっきと同じ光る球体のようでした。「一緒にお家に帰るか」と僕は娘に声をかけました。
彼女は、「うん、一緒に帰る」と答えました。

不思議なことです。

生きているときは、言葉が喋れないために一度も会話をしたことがない彼女と、
死んだ後ではまるで普通の人と同様に会話ができるのです。

といっても、それは鼓膜から通して伝わってくるものではなく、
直接僕の心に語りかけてくるテレパシーのような通信手段でしたが、
それでも意思は完全に通じあっていました。

いろいろなことを語り合いながら、車を運転していくと、途中で雨が降り始めました。
家に着いたときもまだ雨は降り続いており、
彼女は「そうかぁ、雨ってこういうものなんだ」と感激していました。
ずっと室内で暮らしていた彼女は、雨というものを実体験したことがなかったのです。

その後、娘は(ヘンな話ですが)自分の葬儀にも出席し、
しばらく我が家に滞在していました。

その間に
「お前はなんであんな不自由な身体を選んで生まれてきたのだ」
と尋ねたことがあります。
娘の答えはこうでした。

「他の理由はあるけど、私が生まれる前のパパの心の状態のままだと、
 パパは弱者に対してのやさしさが持てない人になっていたかもしれないの。
 それで私は重い障害をもってパパの娘に生まれたの」

この言葉は僕にとって目からウロコが落ちるようなものでした。

たしかに、思い返してみれば当時の僕にはそういった傾向があったのかもしれません。
やがて娘は、「もう天に帰るから」と言って去っていきました。

痛く、辛く、悲しい人生ではあったと思いますが、
彼女の一生は無駄でも敗北でもありませんでした。
障害をもつ子として生まれて、僕に思いやりの大切さを気づかせてくれたのですから。

これはすべて本当の話です。

もう一度言いましょう。
どんな人生でも無駄や敗北はないのです。
大切なのは無駄や敗北とみえたことから、何を学び取るか、なのです。


スピリチュアル | 12:28:45 | トラックバック(0) | コメント(8)
プログラミングが教えてくれたこと
Korva は、小学生の高学年の頃から、
コンピューター・プログラミングが好きでした。

元々は、コンピューター・ゲームを自分で作ってみたいという動機から、
コンピューター・プログラミングを始めたのですが、
今 思うと、この経験は、自分の人格形成において、
結構 大きな割合を占めているのではないかなと感じます。

子供の頃、Korva の家から一番 近くに住んでいたのがY君で、
幼少の頃から、Y君とはよく遊んでいました。
このY君は、ゲームとかパソコンとかラジコンとか、
そういう、マニアックなものが好きだったので、
Korva も自然と、そういうものに興味を持つようになりました。

のちに、Korva と同じく、体質的に肉を食べられないN君を加えた3人のグループで、
MSX という統一規格のPCを使って、それぞれが作ったゲームで遊んだり、
プログラムを批評しあったりということをしていましたが、
この3人が作ったゲームを見ていると三者三様で、
それぞれの個性や能力が、ゲームという作品に反映されていて、
とても面白かったですね。

プログラミング能力は、Korva が一番 優れていましたが、
N君は、Korva には思いつかない様な、
奇抜なアイデアのゲームを思いつくので、
Korva は密かに、彼に敬意を抱いていました。

一方、Y君は、自分でゲームを作るよりは、
市販のゲームをマニアックにやり込みたいタイプで、
色々なウラ技とかを知っていましたが、
プログラミングのほうは、
小規模でちょっとした習作的なものを作るといった感じでした。

そのうち、こうして作ったゲームは、
今は懐かしい「BASICマガジン」や「POPCOM」などのPC雑誌に、
投稿するようになりましたが、
N君とKorva の作品が掲載されたのは、良い思い出です。
ちなみに、N君は今でも、ゲーム・デザイナーとして活躍しているようです。

プログラミングによって、かなりまとまった数の
ゲームなりアプリケーションなりのシステムを、
自分で作った人には、感覚的に分かる話だと思いますが、
プログラミングにおいて重要になる能力は、
混沌の中から法則性を見つけ出す洞察力と、
物事を論理的に組み立てる思考能力です。
その他にも、物事を多面的に見る頭の柔らかさも、
一つの問題に対して、複数の解法を見つけたり、デバッグをする上で、
重要になるかもしれませんし、
昔のPCはメモリーの容量が少なかったので、
論理的な審美眼も、コンパクトで美しいプログラムを書く上では、
必要になりましたが、今では、これは個人的な嗜好の範疇かもしれません。

当時のKorva は、ゲームのアイデアよりも、プログラミング能力を高めることと、
優れたプログラムが持つ「論理的な美しさ」と「構造的な美しさ」に取り付かれていて、
ゲームを作るときも、構造的・論理的に美しいプログラムを書くことにこだわっていました。

今考えると、なぜあんなに熱中していたのか不思議な感じですが、
この頃は、寝ても覚めてもプログラミングのことを考えていたので、
いつも頭に鈍痛がありましたが、どうしても、
考えずにはいられない心理状態だったのでしょうね・・・
多分、現実逃避の手段でもあったのだと思います。

こういうゲームを作りたいと思って、プログラムを組むと、
まず、まともには動きませんね。

文法エラーなんかは、すぐに修正できるので、特に問題になりませんが、
一般的に問題になるのは、「バグ」と言われる、論理的なエラーです。

論理的なエラーがあっても、プログラムとしては一応 機能するのですが、
プログラマーが意図したようには機能しません。
この状態を、いわゆる「バグってる」状態と言い、
プログラマーが意図したとおりの動作をさせるために、
論理的なエラーを修正することを、
「デバッグ」又は「バグ取り」なんていう風に言いますね。

この「バグ取り」は結構 困難な作業で、
一つのバグ取りに何日も費やすこともありますし、
何日も考え続けた結果、結局バグ取りに失敗することも、
特に、プログラミング初心者の頃は多いですね。

バグ取りが困難なのは、
論理的思考力や洞察力が要求されるからですが、
こういう能力は、あまり学校の勉強では要求されないので、
なかなか鍛える機会が与えられません。

プログラミングに慣れていない頃は、
どこが間違っているのか、皆目 見当もつかない状態です。
なぜなら、頭の中に、論理的に思考する回路が十分に形成されておらず、
こういう回路が無いと、論理的エラーを見つけることができないからです。

論理的エラーを修正するためには、プログラムを何度も読み返して記憶して、
そのプログラムがどのように機能するかを、頭の中でシミュレートし、
どこに論理的な間違いがあるのかを、何日も考え続けているうちに、
頭の中に必要な論理回路が形成されてくることで、
どこに論理的な間違いがあるのかが認識できるようになり、
そこで初めて、論理的エラーを修正できるようになるという感じなので、
脳が物理的に変化するのを、考えながら待つという、
苦しい過程が要求されます。

こういうことを、何年もやっているうちに、
大体どんなプログラムも、自由自在に作れるようになりますが、
これは、プログラミング・テクニックの蓄積という、知識的・ソフト的な側面に加えて、
頭の中に、必要な論理回路が形成されることで、同じような論理的な間違いを、
再び犯しにくくなるという、ハード的な側面があります。

そして、自由自在にプログラムが組めるレベルに到達する過程で、
プログラマー自身も、自分の経験から、ある思想を抱くようになります。

それは、
「自分の思考は完全ではない。
 自分の思考を信じるな」
そして、
「自分に見えているのは一部のみで、全体を把握していない。
 自分の認識力を信じるな」
というものです。

なぜ、その様に考えるようになるかというと、
思考の過程において、自分が犯す論理的エラーは、
その時点の自分には認識できないということを、
繰り返し繰り返し、思い知らされるからです。

先ず、なぜ、論理的エラーを含むプログラムを、
最初に作るのかと言う問題がありますが、
それは、その論理的エラーを含むプログラムが、
その時の自分の論理的思考能力から見て、
正しいように感じるからです。

つまり、明らかに論理的に間違っていることを、
論理的に正しいと感じている場合が、
非常に多いということを、プログラミングを通じて、
幾度と無く経験するのです。

そして、なぜ、明らかな論理的エラーを、論理的に正しいと感じるのかですが、
これは、論理的に構成された全体像の、限られた一部のみしか、
論理的に把握できていないからです。

つまり、論理的に整合性を持って把握できる範囲が狭いために、
論理的構造物の一部と別の部分の論理的な繋がりが把握できず、
そこで生じている論理的エラーを認識できないのです。

なので、論理的に把握できる範囲が広がれば広がるほど、
洞察力が増すので、どこに論理的エラーが含まれるのかを、
見つけやすくなります。

つまり、自分の思考における論理的エラーと言うのは、
その時の自分からは見えず、
論理的思考能力の向上と、論理的認識力の拡大によって、
初めて、見えるようになるものだと言えます。

プログラミング初心者の頃は、
「このプログラムは絶対に正しいはずだ。
 なのに、なぜ正常に機能しないのだろう?
 さては、このパソコンに異常があるのでは?」
なんてことを考えるもので、
何日も、どこに間違いがあるのだろうと考えているうちに、
パソコンを叩き壊したいような衝動に駆られたりもしますが、
長くプログラミングをやっているうちに、ごく普通に、
「自分の論理的思考能力は完全ではない。
 バグっている以上、どこかに論理的エラーがあるのだろう。
 まぁ、じっくり考えることにしよう」
という風に、自然と考えるようになります。

昔のパソコンはシンプルだったので、
システム自体の不具合と言うのは非常に珍しく、
バグっている場合は、ほぼ確実に自分のプログラムのバグだったので、
安心して自分が間違っていると確信できましたが、
最近はシステムが複雑になりすぎて、
OSにさえバグがあるという事態になっているので、
自分のプログラムのバグなのかどうかが、
判然としないこともあるようです。

コンピューターが、自分の論理的間違いを繰り返し教えてくれることで、
「自分は、非常に間違いを犯しやすい存在である」
「自分は、明らかな論理的間違いを、間違いとして認識できない存在である」
「自分は、全体像のごく一部しか把握できない存在である」
という、自己認識に導いてくれることには、さほど抵抗が無いと思いますし、
プログラマーとしては、ごく自然な流れです。

しかし、そういう経験が少ない人は、
結構、自分の考えに自信を持っていることが多く、
「考える」ことが好きな人よりは、「学ぶ」ことが好きな人に、
そういう傾向があるかもしれません。

こういう人は、「正しい考え方」を学ぶことが好きですが、
その思想が含む論理的な間違いなんかは、特に気にしないようで、
自分が学んだ「正しい考え方」以外の考え方は拒絶して、
一種の思考停止による解決を求める人も多いようです。

元々、思想と言うのは、最低限、
徹頭徹尾、論理的な間違いや矛盾点が無く構成されて、
初めて、議論の俎上に載せることができます。

というのは、論理的な間違いや矛盾点を含むものは、
思想としては、根本的な間違いを含んでいるということを意味するので、
議論の対象にはならないからです。

そこをクリアーしてから、その次に、
事実に基づいているのか、
理念としてどうなのか、モラルとしてどうなのか、
法的にどうなのか、心理学的にどうなのか、
ということを議論できます。

「自分は何が正しいかを知っている」
と信じている人は、思考停止に陥りますが、
こういうタイプの人は、思考力とともに、謙虚さも無い人が多いので、
信念を共有しない人とは、なかなか話が通じないようです。

信念は、それを持つことで、
精神的な強さや安らぎが得られる側面もありますが、
それを持つことで、それに反する事実が見えなくなるという
強力なフィルターとしても機能するので、
精神的な牢獄という側面もあり、
持てば持つほど精神的な自由は失われます。

Korva は、スピリチュアル的な話や、宗教的な話も結構好きなので、
そういうサイトやブログもよく拝見するのですが、
そういう世界の人たちは結構、精神的な印象派の方々が多いようで、
美辞麗句や耳当たりのよい思想、一見すると美しい思想、
理性的に聴こえる思想などには、非常に弱く、
「天使の姿で現れる悪魔」を見抜くことが困難なようです。

悪魔が悪魔の姿で現れると、誰も耳を傾けないので、
「悪魔は天使の姿で現れる」のが普通なのです。

便宜的に「悪」という言葉を使いますが、
悪は、善意の人々の「無知」や「思考力の弱さ」を利用して、
勢力を拡大しようとします。

そういう善意の人々は、
自分は正しいことをしていると信じていますが、
実は悪の手先として、悪が活動しやすい世の中を作るための、
手助けをさせられている場合も、多いかもしれません。

一見すると、美しい思想や価値観に見えても、
みんながそれを信じると、悪が活動しやすくなる、
というものがあるのです。

なぜ、このようなことを書いているのかと言うと、
「印象操作」に対して、脆弱な意識構造を持つ人が、
非常に多いと、最近 強く感じるからです。

一般的に、人は、愛するものの幸福を願い、
憎むものの不幸を願うものです。

自分を愛してくれている人の助言は、
自分の幸福を願ってのことが多いので、耳を傾けるべきですが、
そうでない人の助言は、その人自身の損得勘定から、
ああしろ、こうしろ、と言っていることが多く、注意が必要です。

同じように、何かを愛する人が、それについて言うことは、
愛に基づいている場合多いですが、
それに対する愛の無い人が、それについて言うことは、
自分の損得勘定に基づいている場合が多いです。

もちろん、損得勘定が動機にある人が、
「私は自分の利益のために、これを言っているのです」
などと言うわけは無く、人々の善意に訴えかけるために、
説得力のある理由を色々と考えます。

そして、愛からものを言う人の意見に耳を傾けさせないために、又は、
自身の損得勘定からものを言う人の意見に耳を傾けさせるために、
いわゆる「レッテル張り」や「ラベリング」という印象操作が行われます。
レッテル張りによって、前者に邪悪なイメージを植え付け、
後者に善良で理性的なイメージを植え付けるという操作です。

この印象操作は、マスコミがよく使う手法ですが、
世の中を見ている限りは、非常に有効なようですし、
特に、「正しい考え方」を「学ぶ」ことが好きなタイプには、
絶大な効果があるようです。

一般的に、マスコミは、
「マスコミが知ってほしい事実」を報道し、
「マスコミが知ってほしくない事実」は報道しません。
そして、その「知ってほしい事実」については、
「このように考えてほしい」という意見によって、
特定の思想に、視聴者を誘導します。

少し思考力を働かせれば、「さにわ」できることが多いのですが、
ただの作為的な印象に過ぎないものを、
あたかも、自分の理知的な思考の結果として導かれた結論だと、
信じるように誘導されることで、
いとも簡単に、操作される人が多いのだと思います。

プログラマーが持っている信念の一つとして、
「考え続けていれば、いつか必ず答えは見つかる」
というのもありますが、長くプログラミングを続けている人ほど、
この信念を強く持っていると思います。

というのは、プログラミングにおいては、
思考の無い問題解決は存在せず、
思考停止は、すなわち、
問題解決の放棄を意味するからです。


スピリチュアル | 12:12:29 | トラックバック(0) | コメント(18)
ツールとしての思想
Korva は、どちらかと言うと、
思想や価値観というものには、
あまり重きを置いていません。

というのは、Korva は、
「バランスの美」というものを重視していて、
思想や価値観というのは、そのバランスと取るための、
「ツール」に過ぎないと考えているからです。

Korva は、特定の思想や価値観を「正しい」と「定義」し、
その反対の思想や価値観を「間違い」だと「定義」すると、
どうしても、「正しい思想や価値観」に固執してしまい、
結果的に、その思想や価値観が作用する対象のバランスが崩れ、
「バランスの乱れた美しくない状態」に陥ると考えています。

なので、特定の思想や価値観を、
論理的な「証明」と言う意味においてではなく、
特に、倫理的・道徳的な「定義」の意味において、
「正しい」とも「間違い」だともしたくないのです。

大切なのは、思想や価値観ではなく、あくまでも、
バランスの取れた美しい「状態」や「状況」というわけです。

例えば、健康法において、
「体を温めるのが正しい」という思想と、
「体を冷やすのが正しい」という思想があるとします。

思想としては、正反対の内容を持っていますが、
そのどちらの思想を採用して実行し続けても、
「健康」という「バランスの美」を損なう結果になります。

と言う事は、その思想は、
どちらも間違いと言うことでしょうか?
Korvaの考えでは、その思想は、
どちらも正しく、どちらも間違いです。

どういうことかと言うと、そのどちらの思想も、
健康の増進に寄与する場合においてのみ、正しいだけで、
それ以外の場合には、正しいとは言えないということです。

思想や価値観というのは、
それ自体が正しかったり、間違いだったりすることは無く、
特定の状況では正しくなり、別の状況では正しくなくなるもの、
だという考え方です。

例えば、包丁というツールの使い方について考えると、
料理に使う道具として使用すれば、
それは正しい使い方と言えますが、
料理以外のこと(例えば犯罪など)に使うと、
それは、正しい使い方とは言えなくなります。

つまり、包丁が、
良いものであるか悪いものであるかは、
包丁そのものにではなく、
その「使い方」に、かかっていると言えます。

そして、それと同じように、
思想や価値観というものも、それ自体には善悪は無く、
ただ、それがどのように使われ、どのような結果を招くのかによって、
正しくなったり、正しくなくなったりするものだと思います。

平和についても、Korva は、
「平和な状況」を尊重するだけで、
「平和思想」については、特に尊重はしません。

というのは、「平和思想」は、それを持つことによって、
平和が獲得、維持、促進、される場合にのみ正しく、
それを持つことによって、戦争の危険性が高まる様な場合には、
正しいものだとは言えなくなるからです。

例えば、日本の周辺にあるのが友好国のみの状況では、
平和思想を持つことで、平和が促進される可能性が高いですが、
そうではない状況では、平和思想を持つことには、
戦争を誘発する可能性を高める効果があるかもしれません。

なぜなら、一般的に、
軍事力の不均衡が大きくなると、戦争が誘発される可能性が高まりますが、
軍事力の不均衡が小さくなると、その可能性が低くなるからです。

そして、平和思想は、
片方のみが、それを持ち、実行した場合には、
軍事的な不均衡を大きくする効果があるわけです。

特定の思想や価値観を善とし、
その反対の思想や価値観を悪とするのは、
どちらかと言うと、宗教的な態度だと感じますし、
スピリチュアルの世界でも一般的ですが、
それ以外の世界でも、ごく普通のことかもしれませんね。

特定の思想や価値観を、
どのような場合においても正しいと考えるのは、
いわゆる「原理主義」と呼ばれる考え方ですが、
そのような硬直した考え方によって、
変化し続ける状況の中で、果たして、
上手くバランスを取っていけるのかどうか、
一度、考えてみるのはいかがでしょうか?


スピリチュアル | 16:37:56 | トラックバック(0) | コメント(8)
「西の魔女が死んだ」を読んでスピリチュアリズムについて考えたこと
Korva は、梨木香歩の『西の魔女が死んだ』という物語が好きで、
時々 思い出しては、読み返しています。

nishinomajogashinda


この本は、いわゆるスピリチュアル本ではないのですが、
スピリチュアリズムなどの、見えない事柄、神秘的な事柄を扱う上で、
非常に大切なことが描かれているように感じます。
スピリチュアリズムが商業化すると、
真実の追究よりも、読者の需要に応えることが至上命題になるので、
スピリチュアリズムの研究においては、
スピリチュアル本でないことが重要になることも、あるかもしれません。

Korva が、スピリチュアリズムについて書くと、
いつも、批判的なことが少々多くなってしまいますが、
これは、スピリチュアリズムが好きな自分に対する、
戒めのようなものでもあります。


主人公の「まい」が不登校になり、
母方の祖母のところで休養することになります。
このおばあちゃんは、イギリスの魔女の血筋で、
まいは、おばあちゃんの所にいる間、
成り行きから、魔女修行を受けることになります。
魔女修行といっても、魔法のことを習ったりするということはなく、
魔女に必要な心構えのようなものであったり、
日常生活を規律正しく送ることであったりしますが、
おばあちゃんの所を去った後も、このときの経験が、
まいの心に影響を与え続けるのです。
そして、このときに習ったことが、その時のまいに欠けていたもので、
その後のまいの成長に、最も必要なことだったのです。

ちなみに、この魔女のおばあちゃんは、
Korva が理想とする人間像の一つです。

まいのおばあちゃんは、非常に保守的な考え方をするタイプで、
事実であると確かめられたことに基づいて合理的に考えようとします。
そして、保守的な人が一般的にそうであるように、
心身の鍛錬によって成長し変わっていくことを重視しています。
一般的な意味で使われた「成長」という言葉に、まいは反感を覚えるのですが、
そこに、その時のまいの価値観の一端が現れています。

このおばあちゃんが、スピリチュアルな事柄に深く関わっていながら、
最後まで立派な人でいられたのは、こういう保守的な傾向があったからだと思います。
この場合の保守性というのは、外界や他者に対して保守的ということで、
他者や外界のありのままを認めて尊重することを意味しています。
おばあちゃんは、まいの存在に感謝し、まいのありのままを認め、深く愛しており、
まいの良いところを臆面も無く褒めるようなところがあります。
そして、まいもその様なおばあちゃんが大好きです。
他者や外界に対して、愛に基づく考え方を採用する場合、
ありのままの他者や外界を受け入れ理解し、その良い面を見ようという態度になるため、
結果的に、保守的な傾向が強くなってしまうのだと考えられます。
それに対して、愛の無さは、完全性を求めます。

そして、保守性には伝統的なものを大切にすることも、もちろん含まれます。
おばあちゃんは、もともとはイギリス人ですが、
その土地に根付いた生き方をしたいと思っており、
日本文化を尊重し、日本文化と調和して生きています。
まいのお父さんが、おばあちゃんがイギリス人であることを考慮して、
お土産として、洋風の和菓子を持ってくるのですが、
おばあちゃんは、その土地に深く根ざした本物が良かったと思いつつも、
まいのお父さんの気持ちを尊重して、
それが神聖なものであるかのように、黙々と食べる場面があります。
そして、その様な精神的な態度というのは素敵だなと、Korva は感じます。

スピリチュアルな人は、保守的ではない(左派的な)人が多いのですが、
スピリチュアルな事柄を扱う上では、
保守的な傾向というのが非常に重要になると感じます。
というのは、保守的な人は「常識」を重んじますが、
常識的な思想や価値観というのは、比較的、客観的事実や、
多くの人が経験したり確認できることに基づいているので、
根拠や合理性、妥当性がありますし、
また、道徳的、倫理的なことにおいても、
保守的な人は、是々非々な考え方をする傾向がありますが、
それに対して、左派的な人は、その反対の傾向を持っているからです。

左派的な思想というのは、
嫉妬や憎悪などのネガティブな感情を土台としているので、
ネガティブなものの正当化という基本的な性質がありますし、
一般的な価値観において成長することを目指すよりも、
その一般的な価値観の破壊の方を目指すので、
物質的にも精神的にも、下方平準化の方向性を持っています。
上位者と下位者との差が縮まる代わりに、全体のレベルが下降していきます。
そして、左派的な人が求める「結果的な平等」を実現しようとした場合、
上方平準化は不可能なので、下方平準化が実現することになります。
左派的な人は、それを全く望んではいないと思いますが、
一部の特権階級と下方平準化された民衆の世界というのが左派的な世界です。

スピリチュアルな傾向に左派的な傾向が加わると、
かなりの確率で、人間性に問題が生じてくるというのは、
長くスピリチュアリストを観察していると、容易に判ります。
スピリチュアリズムは、一般的な常識に囚われることを嫌うので、
(ただし、スピリチュアル界の常識は絶対的なものとしがち)
左派的な、ネガティブなものを正当化する性質が加わると、
非常識が常識化し、例外が一般化し、ネガティブな感情が一見 美しい思想に偽装され、
比較的良いものの悪や、比較的悪いものの善が絶対化し、
比較的優れたものの欠点や、比較的劣ったものの長所が過大評価されたり、
段々とそういう傾向が、強化されてくるのです。
そして、結果的に、思想や価値観、知性や人間性に問題が生じてくるのですが、
客観的事実に基づく世界より、そうではない世界の方が、
同調圧力と、異物排除の圧力は強まるので、
その様な異常な考え方に反する意見は排除され、
信じたいものだけを信じ、見たいものだけを見て、
生きていくようになります。

スピリチュアリストや左派は、
人々の思想や価値観、常識とされるものを変えようとしますが、
思想や価値観を変えることには、彼らが考えるほどの重要性は無いかもしれません。
例えば、スポーツについて考えてみると、
前提として、ルール自体が公正でなければなりませんが、
ルールの内容がどのようなものであっても、
全ての選手に等しく適用されていれば、公正な試合だと言えます。
しかし、ルールーをどの様に変更しても、ある人には厳しく適用するが、
別の人にはそうしないということであれば、公正な試合とは言えません。
つまり、ルールの内容よりも、ルールの適用のされ方のほうが重要なわけです。
同じように、価値観や思想の内容がどのようなものであっても、
それが全ての人に、等しく適用されていれば、公正な世界と言えますが、
等しく適用されていなければ、公正な世界とはいえません。
目指すべきは、思想や価値観の変更よりも、公正さの実現の方だと思いますが、
スピリチュアリストや左派というのは、思想や価値観の変更と、
意図していなくても、公正さの廃止を目指しているように見えます。
既存のルールには従わなくてよいという思いが生じることから、
自然と公正さを欠くように見えるのかもしれません。

スピリチュアリズムでは、「愛」というものが一般的に強調されますが、
なぜか、スピチュアリストは、段々と左派的な傾向が強くなりがちです。
それは、理想的な人々が暮らす理想的な社会というものが、
(誰も見たことがありませんが) どこかに実在していたり、
実現可能だと信じていたりすることが原因かもしれません。
そういうものを信じると、現実の人々や社会に対して、
否定的な観念や感情を持つことになるので、
思想や価値観が、徐々に左派的になるのかもしれませんが、
これは、他者から見ると、性格が悪くなったように見えたり、
人間性が低下したように見えたりするという問題もあります。
スピリチュアリズムを勉強することで、
主観的には精神性が向上したつもりでも、
客観的には、愛を失い、精神性が低下しているわけです。
一見すると美しく見えるような思想でも、それを信じると、
結果的に、精神性や人間性が低下するものもあるので、
その思想が、人の精神にどのような影響を与えるのかを、
じっくりと観察する必要があると思います。

「じゃあ、魔女って生きているうちから死ぬ練習をしているようなもの?」
「そうですね。十分に生きるために、死ぬ練習をしているわけですね」
まいはしばらく考え込んだ。
「それじゃあ、身体を持っていることって、あんまりいいことないみたい。
なんだか、苦しむために身体ってあるみたい」
まいは、無力にも物体と化して転がっていた、バラバラの鶏のことを思っていた。
「あの鶏にはかわいそうなことをしましたね」
おばあちゃんもしんみりと言った。
なぜおばあちゃんはわたしの考えていることが分ったのだろう、といぶかったが、
そんなことを詮索していてはきりがないので、
「もしああいう目に遭うとしても、身体をもつ必要があるの?」
と、責めるようにきいた。
「あの鶏にはあの鶏の事情があったのでしょう。
魂は身体を持つことによってしか物事を経験できないし、
体験によってしか、魂は成長できないんですよ。
ですから、この世に生をうけるっていうのは
魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです。
成長の機会が与えられたのですから」


おばあちゃんは、魂は肉体を持つことによって、
初めて「経験」することが可能になり、
魂は、その経験によってしか成長することはできないと考えていて、
肉体を通した経験というものを重視しています。
人が経験できることには、可能なことと不可能なことがあり、
経験を通して人はそれを学ぶことができますが、
想像の世界では、あらゆることが可能なので、
想像に基づいた思想や価値観というのは、
実際には、実現不可能なものが多く含まれていると思います。
実現不能なことを実現可能だと信じたり、
または、解決不能なことを解決可能だと信じたり、
解決する必要のないことを解決すべきだと信じることで、
社会にとって、トラブル・メーカーになるスピリチュアリストもいます。

「座禅を組んだり、瞑想したりするの?」
おばあちゃんは、またにやっとして、
「それはまだちょっと早いですね。
いきなりバットを振って肩を脱臼するようなものです」
まいはがっかりした。座禅も瞑想もまだ早いのだったら、
超能力で未来を予想したり、呪文を唱えて何かに変身するなんてことは、
もう気が遠くなるくらい先のことではないか。
「いいですか、まい」
おばあちゃんはわざと冗談めかして、声をひそめて言った。
「この世には、悪魔がうようよしています。
瞑想などで意識が朦朧となった、しかも精神力の弱い人間を乗っ取ろうと、
いつでも目を光らせているのですよ」
半分冗談だと思いながらも、まいは背筋がゾクッとした。
「おばあちゃん、悪魔って本当にいるの?」
と、おそるおそる訊いた。きっと否定してくれるものと思いながら。
でもおばあちゃんからの応えは簡単明瞭だった。
「います」
まいは一瞬息をのんだ。
おばあちゃんはまたにやりとして、
「でも、精神さえ鍛えれば大丈夫」


おばあちゃんは、見えない世界における「悪魔」の存在を想定しています。
これも、見えない世界の事柄を扱う上で非常に重要なことだと思います。
見えない世界において、悪意のある存在を想定しない場合は、
見えない世界の事柄に対して、事実上、判断力を放棄することになるからです。
もちろん、判断力を放棄すると、一々考えなくてもよくなるので、
精神的に楽になるというメリットがありますが、その代償が、
人間の精神にとって、とても貴重なものである判断力の放棄というわけです。

「おばあちゃんの言うとおり、悪魔が本当にいるとして、
そんな簡単なことで、悪魔が本当に防げるの?」
「本当に、大丈夫。悪魔を防ぐためにも、魔女になるためにも、
いちばん大切なのは、意思の力。
自分で決める力、自分で決めたことをやり遂げる力です。
その力が強くなれば、悪魔もそう簡単にはとりつきませんよ。
まいは、そんな簡単なことっていいますけれど、そういう簡単なことが、
まいにとってはいちばん難しいことではないかしら」


スピリチュアルな世界では、自分が決めたことではなく、
人間を超える存在(自称ですが)の言うことが、絶対的な真実だと見なされますし、
その真実を信じない人は、精神的な価値の低い人だと見なされますが、
そういうスピリチュアリストは、自分の意思と判断力を放棄した、
単なる権威主義者と言えるかもしれません。

人間が人間を超えるものに従わなければならないのなら、
その人間を超えるものも、彼らを超えるものに従わなければならず、
彼らには自決権というものは無いということになり、
彼ら独自の思想や価値観にも意味が無いということにもなります。

自称 神は悪魔かも知れず、自称 高級霊は低級霊かも知れず、
自称 進化した宇宙人は退化した宇宙人かも知れませんし、
ただの人間が、人間を越える存在によって、
自分の意見を権威付けるために言っているだけの可能性も、もちろんあります。
先進国の住民が、途上国の住民を自分たちより劣った存在と考えて、
善意から自分たちの思想や価値観を教えてあげたとしても、
それが常に正しいとは限らないように、
そういう存在の言うことも、そういう性質のものである可能性もあります。
途上国のある住民が、先進国の常識を学び、
自分は他の同国人より上等な人間になったつもりで、
他の同国人を見下したりしている光景というのは滑稽かもしれません。

この物語に、悪役というか、まいの嫌悪の対象、
まいの小さな世界における、絶対悪のような存在として
「ゲンジさん」という人物が登場します。
ゲンジさんは、粗野な男なので、一般的には、
思春期の女の子には嫌われそうなタイプですが、
まいへの最初の印象が悪かったので、
ゲンジさんは、まいの投影の対象になり、
段々と嫌われ、結果的に、激しく憎悪されるようになります。
しかし、この最初の不幸な一件も、実は、
ゲンジさんがおばあちゃんのことを心配していたから起こった、
ということが示唆されているのですが・・・

読者は、主人公のまいに感情移入しながら読むので、
ゲンジさんを徐々に憎悪するようになるまいの感情は、
正当でリアリティーのあるもののように感じるのですが、
憎悪するようになる理由となるような、客観的な事実は、単に、
ゲンジさんから 「本当のことを言われた」 ことだけだったりします。
ゲンジさんも、人(たぶん兄弟)から同じことを言われたとき、
ただ笑って済ませた(むしろ場が和んだ)ことから、
まいに、それを言ったとき、
悪意から言ったのではないということが判るのですが、
(人は悪意を持って言ったことを自分が言われると普通は怒る)
まいは既に、ゲンジさんを投影の対象にしているため、
ゲンジさんを悪く解釈することしかできなくなっています。
スピリチュアルな世界でも、特に何も悪いことをしていないような人が、
悪魔化したり、絶対悪化するようなことは、
特に珍しい現象ではなく、ごく普通の現象ですし、
それに異を唱える人も、同様に悪魔化されます。
善悪が問題となる場においては、違う意見は善に逆らうものと見なされるので、
単に個性の違いとして尊重されることはないようです。

客観的には、ゲンジさんがおばあちゃんを助けているような場面でも、
助けを必要とする状況に陥った、そもそもの原因はゲンジさんであるというのが、
まいの想像することで、しかも、それが事実であると、まいは「確信」しているわけです。
つまり、まいの世界では、ゲンジさんが悪いということは自明のことであって、
ゲンジさんは、ゲンジさんである限り、何をしても憎まれるわけです。

まいが、ゲンジさんをナメクジになぞらえて、
悪意に満ちた、醜悪な妄想を巡らす場面があります。
これは明らかに、客観的な事実に反しているので、
まいの単なる妄想であると簡単に判断できるのですが、
このことによって、まいの想像はニュートラルなものではなく、
悪意に基づく偏ったものであるということが判りますし、
その場面以外での、まいのゲンジさんについての想像が、
それと同じような、悪意に基づく妄想にすぎない、
という可能性も生じてしまいます。

実は、まいの想像が事実であるかどうかを、
簡単に確認できる場面(筍の一件)もあるのですが、
なぜか、まいはそれをしないことから、
まいにとっては、それが事実かどうかが重要なのではなく、
自分の感情を正当化し、自分の想像の一貫性を保つ方が、
より重要なのではないかと思われます。
また、この一件で、まいは、自分が悪人だと見なす人は、
不快にしたり傷つけたりしても良いと、無意識的に考えているらしい、
ということも読み取ることができます。

しかし、まいの不登校のそもそもの原因は、
まいがゲンジさんにしていることと同じようなことを、
まいのクラスメイトにされるようになったことなのです。
つまり、特に何も悪いことをしていないにもかかわらず、
クラスメイトの共通の「敵」に認定されてしまったことなのです。
まいのように、自分が「感じること」を重んじ過ぎる人というのは、
同じ行為でも、自分がすれば善、嫌いな人がすれば悪ということになります。
「何をするか」が問題なのではなく、「誰がするか」が問題になるわけです。

まいは、おばあちゃんのところを去った後、転校することになるのですが、
転校先の学校で新しくできた友達に対して、
転校前の学校で、自分が散々されてきたことと同じことをしてしまい、
少し反省する場面があります。
転校前の学校で身に付いた負の遺産だと、まいは人のせいにするのですが、
反省するだけ、かなり成長しているのが判ります。
これは別に、まいの性格が悪いということでは全くなく、
人というのは、えてして、そういうものだと思います。
同じことでも、自分がする場合は、正当なものだと「感じる」ものです。
そしてこれは、「感じる」ことを大切にするスピリチュアリストたちが一般的に、
ややもすると、ダブル・スタンダードを徹底させようとしているようにも見える、
原因の一つだろうと思います。

「でも、まいはそれを見ていたわけではないでしょう」
「見なくても分る」
おばあちゃんはため息をついた。
「まい、ちょっとそこへお座りなさい」
まいはテーブルについた。おばあちゃんも向かいに座った。
「いいですか。これは魔女修行でいちばん大事なレッスンの一つです。
魔女は自分の直観を大事にしなければなりません。
でも、その直観に取り付かれてはなりません。
そうなると、それはもう、激しい思い込み妄想となって、
その人自身を支配してしまうのです。
直観は直観として、心のどこかにしまっておきなさい。
そのうち、それが真実であるかどうかが分るときがくるでしょう。
そして、そういう経験を幾度となくするうちに、
本当の直観を受けたときの感じを体得するでしょう」
「でも・・・・・・」
「まいは自分の思っていることがたぶん真実だと思うのですね」
まいはうなずいた。
「あまり上等ではなかった多くの魔女たちが、
そうやって自分自身の創りだした妄想に取り付かれて自滅していきましたよ」
まいは一瞬おばあちゃんに敵意のようなものを感じた。
闇の中の白刃のようにそれはきらりと光った。
おばあちゃんは見通したように、まいの手を両手で包んだ。
「まい、どうか分ってください。これはとても大事なことなのです。
おばあちゃんは、まいの言っていることが
事実と違うことだといって非難しているのではないのです。
まいの言うことが正しいかもしれない。そうでないかもしれない。
でも、大事なことは、今更究明しても取り返しようもない事実ではなくて、
いま、現在のまいの心が、
疑惑とか憎悪とかいったもので支配されつつあるということなのです」


ここで、おばあちゃんは、非常に重要なことを言っています。
基本的にスピリチュアリストたちは、この時のまいのような人々が多く、
スピリチュアルな世界では、このような光景をよく見かけますし、
同じような理由で駄目になっていくスピリチュアリストが多いのだと感じます。
疑惑というのは、完全に無実な人に対しても、際限なく感じることができるので、
疑惑に囚われ憎悪の塊のようになる人も珍しくありません。

そして、こういう精神的な態度は、「客観」よりも「主観」の方を優先しているからですが、
それは、そうするほうが精神的に「楽」だからで、楽な方が良いと「感じる」からだと思います。
精神的に楽な方が正しいとすると、結果的に、真実にたどり着くことはできなくなります。
というのは、楽な方が常に正しいとか良いということは、当然、ないからです。
何でもただで手に入れることはできませんが、
精神的な楽さというのも、何かと引き換えにしなければ手に入れることはできず、
その何かというのは、それを得るために人として生きてると言ってもよいほど、
人間の精神にとって非常に大切なものだったりします。
むしろ求めるべきものは、精神的な「楽さ」ではなく、
精神的な苦痛に耐えられる「強さ」のほうかもしれません。
身体的なことでも、鍛錬しすぎて体を壊すということはありますが、
常に楽な方が体に良いということはありません。
心にも体にも、適度な負荷というのが必要です。
(もちろん、弱っている人には、鍛錬ではなく休息が必要です)

スピリチュアリズムでは、あるがままの自分が素晴らしいということがよく言われますが、
自分の個性がどのような場合にメリットになり、どのような場合にデメリットになるか、
そして、自分の個性をどうすれば活かす事ができるか、
というような知識や習慣を後天的に身につけた後でなければ、
あるがままの自分というのは、残念ながら、素晴らしくはなりません。
あるがままの自分が素晴らしいと思うと、自分に対しては保守的になります。
自分に対する保守性を保とうとすると、他者や外界に対しては革新的になり、
自分と他者や外界との間に不調和が生じた場合、
自分ではなく、他者や世の中の方が変わるべきだと考えますが、
その様な考え方は、結果的に不調和を促進します。

「わたしはそういうことに動揺せずに、平気になんか、絶対になれない。
わたしはあの人を好きになんか、絶対になれない。
あんな汚らしいやつ、もう、もう、死んでしまったらいいのに」
「まいっ」
おばあちゃんは短く叫んでまいの頬を打った。瞬間の出来事だった。
まいはあっけにとられた。それから涙がじわりとわいてきた。
「おばあちゃんは、わたしよりあの男の方が大事なんだ」
必死でそれだけ言うと、立ち上がってバタバタと屋根裏の自分の部屋に駆け込み、
ベッドに飛び込んで頭から布団を被った。
おばあちゃんはひどい。わたしをこんな屈辱的な目に遭わせるなんて。
それも、あんな男をかばうために。おばあちゃんはひどい。
こんなに野蛮な人だとは思わなかった。
それもこれもみんなあの男のせいだ。
あの男さえいなかったら、おばあちゃんとわたしは本当にうまくいっていたのに。
あんな男は生きている価値がないんだ。ああ、悔しい・・・・・・。


この出来事によって、大好きなおばあちゃんとの関係にひびが入り、
わだかまりを残したまま、まいはおばあちゃんのところを去ることになり、それ以降、
おばあちゃんが亡くなるまで、おばあちゃんのところに訪れることはありません。

もちろん、ゲンジさんは死に値するようなことはしていませんし、
ゲンジさんが働いた悪事というものも、単にまいの想像するところであって、
それが事実であると確認されたわけでもありません。
まいは、自分の「信じること」に従って、憎悪の塊になっているのです。

そして、まいの そういう想像が当たっているかどうかというのは、
最後まで、ほとんど明らかにはされませんし、当たっている可能性も、もちろんあるのですが、
まいの想像に過ぎなかったということが、一つだけ、明らかになる場面があります。
ゲンジさんが、おばあちゃんのことを「外人」呼ばわりしたという一点のみで、
ゲンジさんはおばあちゃんのことを悪く思っているだろうと、まいは想像するのですが、
おばあちゃんが亡くなったとき、
ゲンジさんは、銀竜草(ギンリョウソウ)という花を持ってきて、
おばあちゃんのために涙を流すのです。
ゲンジさんは、おばあちゃんに手向ける花は、
銀竜草が相応しいと考えたのだと思います。

ginryuusou


この作品の中で、銀竜草は、
既に亡くなっているおじいちゃんが好きだった植物で、
おじいちゃんの魂の象徴のように描かれている植物です。
この銀竜草は、葉緑素を持たず、日光を必要としない植物で、
暗闇の中で育ち花を咲かせることができるのです。
そして、暗闇の中で白く輝く銀竜草は、
絶望の中の希望を象徴しているようにも感じます。

ゲンジさんはおじいちゃんのことが好きで、
おじいちゃんも生前、ゲンジさんを可愛がっていたということから、
ゲンジさんに銀竜草のある場所を教え、
銀竜草のことについて話していたのだと考えられます。
出来の悪い自分を可愛がってくれていた人の奥さんで、
しかも、自分を印象だけで判断しない人を、
ゲンジさんが悪く思うわけがないのです。

ゲンジさんの印象が悪いということは、
おばあちゃんにも、当然 解っていたと思いますが、
ゲンジさんがおじいちゃんを好きだったということもあって、
ゲンジさんの本当の人間性などの、
印象以外の部分についての知識もあるわけです。
また、ゲンジさんに対するその様な、公正な態度というのは、
特に何も悪いことをしていなくても、怪しいと疑われれば、
火あぶりによって処刑されたというような、
魔女の歴史というのも関係しているのかもしれません。

まいがおばあちゃんの所を去る日の前日に、
山の中で足を滑らせたことから、
偶然に、この銀竜草を見つけて、新種の植物かもしれないと思い、
おばあちゃんのところ持っていく場面があるのですが、
まいはその時、見えない何かの存在を感じています。
そして、どうやらこれは、おじいちゃんの魂のしわざのようで、
まいが将来的に、ゲンジさんの存在を許すことができるようになるための、
布石のようなものではないかと考えられます。

まいは小さい頃、お父さんから、
「人は死んだら、最後の最後で、何もわからなくなり、
自分というものも無くなり、もう何も無くなる」
ということを教えられて、そのことでずっと悩み、苦しんできたのですが、
おばあちゃんは、自分が死んだ後に、まいにしか証明にならない仕方で、
生前の約束どおり、魂の存在を証明してみせます。
このことによって、まいは、その長年の苦しみから救われたと思いますし、
同時に、自分の経験によって知ることの大切さや力強さ、
「事実を知る」とこと「信じる」こととの違いを知ったのではないでしょうか。

しかし、これは、まいにとっては確かな証拠、紛れもない事実そのものなのですが、
他の人には、何の証拠にもならないというのが面白いところで、
スピリチュアルな事象を扱うときに、よく遭遇する現象でもあります。
経験というのは個人的なものなので、ある人には明らかな事実であることでも、
他の人には「信じない自由」というものが与えられているのだと思います。

そして、まいは、おばあちゃんのところを去った後も、
それがおばあちゃんとのつながりを保つ方法だと感じて、
魔女修行をずっと続けてきたお陰か、この頃になると、
一般的に魔女という言葉から想像されるようなものではありませんが、
「魔女的な何か」が芽生えてきており、
勘の良い、まいの友人にも、それを感づかれています。
これは、自分の決めたことを粘り強くやり遂げる力、そして、
一見、それと矛盾するように見える、我を通すこととの放棄にも繋がると思いますが、
自分の意識が意図することができなくなることにより、結果的に、
自分の魂が望むことが実現するという、奇妙なめぐり合わせのようなものです。
そして、この魔女的な何かというのも、人から見れば、
単なる偶然にしか見えないようなものであるのも面白いところです。




映画 『西の魔女が死んだ』の主題歌、『虹』 です。
Korva の大好きな曲です。
歌は手嶌葵さん本人によるものではなく、他の方のカバーです。



こちらは、2008年に公開された映画の予告編です。
映画の方はまだ見ていませんが、機会があれば見てみたいです。



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まとめ