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"Korva"とはフィンランド語で「耳」という意味。なぜかスピーカーのことを考えてると幸せ。よい音とは何か、そして理想のスピーカーとは何かを日々考え追求しています。

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「西の魔女が死んだ」を読んでスピリチュアリズムについて考えたこと
Korva は、梨木香歩の『西の魔女が死んだ』という物語が好きで、
時々 思い出しては、読み返しています。

nishinomajogashinda


この本は、いわゆるスピリチュアル本ではないのですが、
スピリチュアリズムなどの、見えない事柄、神秘的な事柄を扱う上で、
非常に大切なことが描かれているように感じます。
スピリチュアリズムが商業化すると、
真実の追究よりも、読者の需要に応えることが至上命題になるので、
スピリチュアリズムの研究においては、
スピリチュアル本でないことが重要になることも、あるかもしれません。

Korva が、スピリチュアリズムについて書くと、
いつも、批判的なことが少々多くなってしまいますが、
これは、スピリチュアリズムが好きな自分に対する、
戒めのようなものでもあります。


主人公の「まい」が不登校になり、
母方の祖母のところで休養することになります。
このおばあちゃんは、イギリスの魔女の血筋で、
まいは、おばあちゃんの所にいる間、
成り行きから、魔女修行を受けることになります。
魔女修行といっても、魔法のことを習ったりするということはなく、
魔女に必要な心構えのようなものであったり、
日常生活を規律正しく送ることであったりしますが、
おばあちゃんの所を去った後も、このときの経験が、
まいの心に影響を与え続けるのです。
そして、このときに習ったことが、その時のまいに欠けていたもので、
その後のまいの成長に、最も必要なことだったのです。

ちなみに、この魔女のおばあちゃんは、
Korva が理想とする人間像の一つです。

まいのおばあちゃんは、非常に保守的な考え方をするタイプで、
事実であると確かめられたことに基づいて合理的に考えようとします。
そして、保守的な人が一般的にそうであるように、
心身の鍛錬によって成長し変わっていくことを重視しています。
一般的な意味で使われた「成長」という言葉に、まいは反感を覚えるのですが、
そこに、その時のまいの価値観の一端が現れています。

このおばあちゃんが、スピリチュアルな事柄に深く関わっていながら、
最後まで立派な人でいられたのは、こういう保守的な傾向があったからだと思います。
この場合の保守性というのは、外界や他者に対して保守的ということで、
他者や外界のありのままを認めて尊重することを意味しています。
おばあちゃんは、まいの存在に感謝し、まいのありのままを認め、深く愛しており、
まいの良いところを臆面も無く褒めるようなところがあります。
そして、まいもその様なおばあちゃんが大好きです。
他者や外界に対して、愛に基づく考え方を採用する場合、
ありのままの他者や外界を受け入れ理解し、その良い面を見ようという態度になるため、
結果的に、保守的な傾向が強くなってしまうのだと考えられます。
それに対して、愛の無さは、完全性を求めます。

そして、保守性には伝統的なものを大切にすることも、もちろん含まれます。
おばあちゃんは、もともとはイギリス人ですが、
その土地に根付いた生き方をしたいと思っており、
日本文化を尊重し、日本文化と調和して生きています。
まいのお父さんが、おばあちゃんがイギリス人であることを考慮して、
お土産として、洋風の和菓子を持ってくるのですが、
おばあちゃんは、その土地に深く根ざした本物が良かったと思いつつも、
まいのお父さんの気持ちを尊重して、
それが神聖なものであるかのように、黙々と食べる場面があります。
そして、その様な精神的な態度というのは素敵だなと、Korva は感じます。

スピリチュアルな人は、保守的ではない(左派的な)人が多いのですが、
スピリチュアルな事柄を扱う上では、
保守的な傾向というのが非常に重要になると感じます。
というのは、保守的な人は「常識」を重んじますが、
常識的な思想や価値観というのは、比較的、客観的事実や、
多くの人が経験したり確認できることに基づいているので、
根拠や合理性、妥当性がありますし、
また、道徳的、倫理的なことにおいても、
保守的な人は、是々非々な考え方をする傾向がありますが、
それに対して、左派的な人は、その反対の傾向を持っているからです。

左派的な思想というのは、
嫉妬や憎悪などのネガティブな感情を土台としているので、
ネガティブなものの正当化という基本的な性質がありますし、
一般的な価値観において成長することを目指すよりも、
その一般的な価値観の破壊の方を目指すので、
物質的にも精神的にも、下方平準化の方向性を持っています。
上位者と下位者との差が縮まる代わりに、全体のレベルが下降していきます。
そして、左派的な人が求める「結果的な平等」を実現しようとした場合、
上方平準化は不可能なので、下方平準化が実現することになります。
左派的な人は、それを全く望んではいないと思いますが、
一部の特権階級と下方平準化された民衆の世界というのが左派的な世界です。

スピリチュアルな傾向に左派的な傾向が加わると、
かなりの確率で、人間性に問題が生じてくるというのは、
長くスピリチュアリストを観察していると、容易に判ります。
スピリチュアリズムは、一般的な常識に囚われることを嫌うので、
左派的な、ネガティブなものを正当化する性質が加わると、
非常識が常識化し、例外が一般化し、ネガティブな感情が一見 美しい思想に偽装され、
比較的良いものの悪や、比較的悪いものの善が絶対化し、
比較的優れたものの欠点や、比較的劣ったものの長所が過大評価されたり、
段々とそういう傾向が、強化されてくるのです。
そして、結果的に、思想や価値観、知性や人間性に問題が生じてくるのですが、
客観的事実に基づく世界より、そうではない世界の方が、
同調圧力と、異物排除の圧力は強まるので、
その様な異常な考え方に反する意見は排除され、
信じたいものだけを信じ、見たいものだけを見て、
生きていくようになります。

スピリチュアリストや左派は、
人々の思想や価値観、常識とされるものを変えようとしますが、
思想や価値観を変えることには、彼らが考えるほどの重要性は無いかもしれません。
例えば、スポーツについて考えてみると、
前提として、ルール自体が公正でなければなりませんが、
ルールの内容がどのようなものであっても、
全ての選手に等しく適用されていれば、公正な試合だと言えます。
しかし、ルールーをどの様に変更しても、ある人には厳しく適用するが、
別の人にはそうしないということであれば、公正な試合とは言えません。
つまり、ルールの内容よりも、ルールの適用のされ方のほうが重要なわけです。
同じように、価値観や思想の内容がどのようなものであっても、
それが全ての人に、等しく適用されていれば、公正な世界と言えますが、
等しく適用されていなければ、公正な世界とはいえません。
目指すべきは、思想や価値観の変更よりも、公正さの実現の方だと思いますが、
スピリチュアリストや左派というのは、思想や価値観の変更と、
意図していなくても、公正さの廃止を目指しているように見えます。
既存のルールには従わなくてよいという思いが生じることから、
自然と公正さを欠くように見えるのかもしれません。

スピリチュアリズムでは、「愛」というものが一般的に強調されますが、
なぜか、スピチュアリストは、段々と左派的な傾向が強くなりがちです。
それは、理想的な人々が暮らす理想的な社会というものが、
(誰も見たことがありませんが) どこかに実在していたり、
実現可能だと信じていたりすることが原因かもしれません。
そういうものを信じると、現実の人々や社会に対して、
否定的な観念や感情を持つことになるので、
思想や価値観が、徐々に左派的になるのかもしれませんが、
これは、他者から見ると、性格が悪くなったように見えたり、
人間性が低下したように見えたりするという問題もあります。
スピリチュアリズムを勉強することで、
主観的には精神性が向上したつもりでも、
客観的には、愛を失い、精神性が低下しているわけです。
一見すると美しく見えるような思想でも、それを信じると、
結果的に、精神性や人間性が低下するものもあるので、
その思想が、人の精神にどのような影響を与えるのかを、
じっくりと観察する必要があると思います。

「じゃあ、魔女って生きているうちから死ぬ練習をしているようなもの?」
「そうですね。十分に生きるために、死ぬ練習をしているわけですね」
まいはしばらく考え込んだ。
「それじゃあ、身体を持っていることって、あんまりいいことないみたい。
なんだか、苦しむために身体ってあるみたい」
まいは、無力にも物体と化して転がっていた、バラバラの鶏のことを思っていた。
「あの鶏にはかわいそうなことをしましたね」
おばあちゃんもしんみりと言った。
なぜおばあちゃんはわたしの考えていることが分ったのだろう、といぶかったが、
そんなことを詮索していてはきりがないので、
「もしああいう目に遭うとしても、身体をもつ必要があるの?」
と、責めるようにきいた。
「あの鶏にはあの鶏の事情があったのでしょう。
魂は身体を持つことによってしか物事を経験できないし、
体験によってしか、魂は成長できないんですよ。
ですから、この世に生をうけるっていうのは
魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです。
成長の機会が与えられたのですから」


おばあちゃんは、魂は肉体を持つことによって、
初めて「経験」することが可能になり、
魂は、その経験によってしか成長することはできないと考えていて、
肉体を通した経験というものを重視しています。
人が経験できることには、可能なことと不可能なことがあり、
経験を通して人はそれを学ぶことができますが、
想像の世界では、あらゆることが可能なので、
想像に基づいた思想や価値観というのは、
実際には、実現不可能なものが多く含まれていると思います。
実現不能なことを実現可能だと信じたり、
または、解決不能なことを解決可能だと信じたり、
解決する必要のないことを解決すべきだと信じることで、
社会にとって、トラブル・メーカーになるスピリチュアリストもいます。

「座禅を組んだり、瞑想したりするの?」
おばあちゃんは、またにやっとして、
「それはまだちょっと早いですね。
いきなりバットを振って肩を脱臼するようなものです」
まいはがっかりした。座禅も瞑想もまだ早いのだったら、
超能力で未来を予想したり、呪文を唱えて何かに変身するなんてことは、
もう気が遠くなるくらい先のことではないか。
「いいですか、まい」
おばあちゃんはわざと冗談めかして、声をひそめて言った。
「この世には、悪魔がうようよしています。
瞑想などで意識が朦朧となった、しかも精神力の弱い人間を乗っ取ろうと、
いつでも目を光らせているのですよ」
半分冗談だと思いながらも、まいは背筋がゾクッとした。
「おばあちゃん、悪魔って本当にいるの?」
と、おそるおそる訊いた。きっと否定してくれるものと思いながら。
でもおばあちゃんからの応えは簡単明瞭だった。
「います」
まいは一瞬息をのんだ。
おばあちゃんはまたにやりとして、
「でも、精神さえ鍛えれば大丈夫」


おばあちゃんは、見えない世界における「悪魔」の存在を想定しています。
これも、見えない世界の事柄を扱う上で非常に重要なことだと思います。
見えない世界において、悪意のある存在を想定しない場合は、
見えない世界の事柄に対して、事実上、判断力を放棄することになるからです。
もちろん、判断力を放棄すると、一々考えなくてもよくなるので、
精神的に楽になるというメリットがありますが、その代償が、
人間の精神にとって、とても貴重なものである判断力の放棄というわけです。

「おばあちゃんの言うとおり、悪魔が本当にいるとして、
そんな簡単なことで、悪魔が本当に防げるの?」
「本当に、大丈夫。悪魔を防ぐためにも、魔女になるためにも、
いちばん大切なのは、意思の力。
自分で決める力、自分で決めたことをやり遂げる力です。
その力が強くなれば、悪魔もそう簡単にはとりつきませんよ。
まいは、そんな簡単なことっていいますけれど、そういう簡単なことが、
まいにとってはいちばん難しいことではないかしら」


スピリチュアルな世界では、自分が決めたことではなく、
人間を超える存在(自称ですが)の言うことが、絶対的な真実だと見なされますし、
その真実を信じない人は、精神的な価値の低い人だと見なされますが、
そういうスピリチュアリストは、自分の意思と判断力を放棄した、
単なる権威主義者と言えるかもしれません。

人間が人間を超えるものに従わなければならないのなら、
その人間を超えるものも、彼らを超えるものに従わなければならず、
彼らには自決権というものは無いということになり、
彼ら独自の思想や価値観にも意味が無いということにもなります。

自称 神は悪魔かも知れず、自称 高級霊は低級霊かも知れず、
自称 進化した宇宙人は退化した宇宙人かも知れませんし、
ただの人間が、人間を越える存在によって、
自分の意見を権威付けるために言っているだけの可能性も、もちろんあります。
先進国の住民が、途上国の住民を自分たちより劣った存在と考えて、
善意から自分たちの思想や価値観を教えてあげたとしても、
それが常に正しいとは限らないように、
そういう存在の言うことも、そういう性質のものである可能性もあります。
途上国のある住民が、先進国の常識を学び、
自分は他の同国人より上等な人間になったつもりで、
他の同国人を見下したりしている光景というのは滑稽かもしれません。

この物語に、悪役というか、まいの嫌悪の対象、
まいの小さな世界における、絶対悪のような存在として
「ゲンジさん」という人物が登場します。
ゲンジさんは、粗野な男なので、一般的には、
思春期の女の子には嫌われそうなタイプですが、
まいへの最初の印象が悪かったので、
ゲンジさんは、まいの投影の対象になり、
段々と嫌われ、結果的に、激しく憎悪されるようになります。
しかし、この最初の不幸な一件も、実は、
ゲンジさんがおばあちゃんのことを心配していたから起こった、
ということが示唆されているのですが・・・

読者は、主人公のまいに感情移入しながら読むので、
ゲンジさんを徐々に憎悪するようになるまいの感情は、
正当でリアリティーのあるもののように感じるのですが、
憎悪するようになる理由となるような、客観的な事実は、単に、
ゲンジさんから 「本当のことを言われた」 ことだけだったりします。
ゲンジさんも、人(たぶん兄弟)から同じことを言われたとき、
ただ笑って済ませた(むしろ場が和んだ)ことから、
まいに、それを言ったとき、
悪意から言ったのではないということが判るのですが、
(人は悪意を持って言ったことを自分が言われると普通は怒る)
まいは既に、ゲンジさんを投影の対象にしているため、
ゲンジさんを悪く解釈することしかできなくなっています。
スピリチュアルな世界でも、特に何も悪いことをしていないような人が、
悪魔化したり、絶対悪化するようなことは、
特に珍しい現象ではなく、ごく普通の現象ですし、
それに異を唱える人も、同様に悪魔化されます。
善悪が問題となる場においては、違う意見は善に逆らうものと見なされるので、
単に個性の違いとして尊重されることはないようです。

客観的には、ゲンジさんがおばあちゃんを助けているような場面でも、
助けを必要とする状況に陥った、そもそもの原因はゲンジさんであるというのが、
まいの想像することで、しかも、それが事実であると、まいは「確信」しているわけです。
つまり、まいの世界では、ゲンジさんが悪いということは自明のことであって、
ゲンジさんは、ゲンジさんである限り、何をしても憎まれるわけです。

まいが、ゲンジさんをナメクジになぞらえて、
悪意に満ちた、醜悪な妄想を巡らす場面があります。
これは明らかに、客観的な事実に反しているので、
まいの単なる妄想であると簡単に判断できるのですが、
このことによって、まいの想像はニュートラルなものではなく、
悪意に基づく偏ったものであるということが判りますし、
その場面以外での、まいのゲンジさんについての想像が、
それと同じような、悪意に基づく妄想にすぎない、
という可能性も生じてしまいます。

実は、まいの想像が事実であるかどうかを、
簡単に確認できる場面(筍の一件)もあるのですが、
なぜか、まいはそれをしないことから、
まいにとっては、それが事実かどうかが重要なのではなく、
自分の感情を正当化し、自分の想像の一貫性を保つ方が、
より重要なのではないかと思われます。
また、この一件で、まいは、自分が悪人だと見なす人は、
不快にしたり傷つけたりしても良いと、無意識的に考えているらしい、
ということも読み取ることができます。

しかし、まいの不登校のそもそもの原因は、
まいがゲンジさんにしていることと同じようなことを、
まいのクラスメイトにされるようになったことなのです。
つまり、特に何も悪いことをしていないにもかかわらず、
クラスメイトの共通の「敵」に認定されてしまったことなのです。
まいのように、自分が「感じること」を重んじ過ぎる人というのは、
同じ行為でも、自分がすれば善、嫌いな人がすれば悪ということになります。
「何をするか」が問題なのではなく、「誰がするか」が問題になるわけです。

まいは、おばあちゃんのところを去った後、転校することになるのですが、
転校先の学校で新しくできた友達に対して、
転校前の学校で、自分が散々されてきたことと同じことをしてしまい、
少し反省する場面があります。
転校前の学校で身に付いた負の遺産だと、まいは人のせいにするのですが、
反省するだけ、かなり成長しているのが判ります。
これは別に、まいの性格が悪いということでは全くなく、
人というのは、えてして、そういうものだと思います。
同じことでも、自分がする場合は、正当なものだと「感じる」ものです。
そしてこれは、「感じる」ことを大切にするスピリチュアリストたちが一般的に、
ややもすると、ダブル・スタンダードを徹底させようとしているようにも見える、
原因の一つだろうと思います。

「でも、まいはそれを見ていたわけではないでしょう」
「見なくても分る」
おばあちゃんはため息をついた。
「まい、ちょっとそこへお座りなさい」
まいはテーブルについた。おばあちゃんも向かいに座った。
「いいですか。これは魔女修行でいちばん大事なレッスンの一つです。
魔女は自分の直観を大事にしなければなりません。
でも、その直観に取り付かれてはなりません。
そうなると、それはもう、激しい思い込み妄想となって、
その人自身を支配してしまうのです。
直観は直観として、心のどこかにしまっておきなさい。
そのうち、それが真実であるかどうかが分るときがくるでしょう。
そして、そういう経験を幾度となくするうちに、
本当の直観を受けたときの感じを体得するでしょう」
「でも・・・・・・」
「まいは自分の思っていることがたぶん真実だと思うのですね」
まいはうなずいた。
「あまり上等ではなかった多くの魔女たちが、
そうやって自分自身の創りだした妄想に取り付かれて自滅していきましたよ」
まいは一瞬おばあちゃんに敵意のようなものを感じた。
闇の中の白刃のようにそれはきらりと光った。
おばあちゃんは見通したように、まいの手を両手で包んだ。
「まい、どうか分ってください。これはとても大事なことなのです。
おばあちゃんは、まいの言っていることが
事実と違うことだといって非難しているのではないのです。
まいの言うことが正しいかもしれない。そうでないかもしれない。
でも、大事なことは、今更究明しても取り返しようもない事実ではなくて、
いま、現在のまいの心が、
疑惑とか憎悪とかいったもので支配されつつあるということなのです」


ここで、おばあちゃんは、非常に重要なことを言っています。
基本的にスピリチュアリストたちは、この時のまいのような人々が多く、
スピリチュアルな世界では、このような光景をよく見かけますし、
同じような理由で駄目になっていくスピリチュアリストが多いのだと感じます。
疑惑というのは、完全に無実な人に対しても、際限なく感じることができるので、
疑惑に囚われ憎悪の塊のようになる人も珍しくありません。

そして、こういう精神的な態度は、「客観」よりも「主観」の方を優先しているからですが、
それは、そうするほうが精神的に「楽」だからで、楽な方が良いと「感じる」からだと思います。
精神的に楽な方が正しいとすると、結果的に、真実にたどり着くことはできなくなります。
というのは、楽な方が常に正しいとか良いということは、当然、ないからです。
何でもただで手に入れることはできませんが、
精神的な楽さというのも、何かと引き換えにしなければ手に入れることはできず、
その何かというのは、それを得るために人として生きてると言ってもよいほど、
人間の精神にとって非常に大切なものだったりします。
むしろ求めるべきものは、精神的な「楽さ」ではなく、
精神的な苦痛に耐えられる「強さ」のほうかもしれません。
身体的なことでも、鍛錬しすぎて体を壊すということはありますが、
常に楽な方が体に良いということはありません。
心にも体にも、適度な負荷というのが必要です。
(もちろん、弱っている人には、鍛錬ではなく休息が必要です)

スピリチュアリズムでは、あるがままの自分が素晴らしいということがよく言われますが、
自分の個性がどのような場合にメリットになり、どのような場合にデメリットになるか、
そして、自分の個性をどうすれば活かす事ができるか、
というような知識や習慣を後天的に身につけた後でなければ、
あるがままの自分というのは、残念ながら、素晴らしくはなりません。
あるがままの自分が素晴らしいと思うと、自分に対しては保守的になります。
自分に対する保守性を保とうとすると、他者や外界に対しては革新的になり、
自分と他者や外界との間に不調和が生じた場合、
自分ではなく、他者や世の中の方が変わるべきだと考えますが、
その様な考え方は、結果的に不調和を促進します。

「わたしはそういうことに動揺せずに、平気になんか、絶対になれない。
わたしはあの人を好きになんか、絶対になれない。
あんな汚らしいやつ、もう、もう、死んでしまったらいいのに」
「まいっ」
おばあちゃんは短く叫んでまいの頬を打った。瞬間の出来事だった。
まいはあっけにとられた。それから涙がじわりとわいてきた。
「おばあちゃんは、わたしよりあの男の方が大事なんだ」
必死でそれだけ言うと、立ち上がってバタバタと屋根裏の自分の部屋に駆け込み、
ベッドに飛び込んで頭から布団を被った。
おばあちゃんはひどい。わたしをこんな屈辱的な目に遭わせるなんて。
それも、あんな男をかばうために。おばあちゃんはひどい。
こんなに野蛮な人だとは思わなかった。
それもこれもみんなあの男のせいだ。
あの男さえいなかったら、おばあちゃんとわたしは本当にうまくいっていたのに。
あんな男は生きている価値がないんだ。ああ、悔しい・・・・・・。


この出来事によって、大好きなおばあちゃんとの関係にひびが入り、
わだかまりを残したまま、まいはおばあちゃんのところを去ることになり、それ以降、
おばあちゃんが亡くなるまで、おばあちゃんのところに訪れることはありません。

もちろん、ゲンジさんは死に値するようなことはしていませんし、
ゲンジさんが働いた悪事というものも、単にまいの想像するところであって、
それが事実であると確認されたわけでもありません。
まいは、自分の「信じること」に従って、憎悪の塊になっているのです。

そして、まいの そういう想像が当たっているかどうかというのは、
最後まで、ほとんど明らかにはされませんし、当たっている可能性も、もちろんあるのですが、
まいの想像に過ぎなかったということが、一つだけ、明らかになる場面があります。
ゲンジさんが、おばあちゃんのことを「外人」呼ばわりしたという一点のみで、
ゲンジさんはおばあちゃんのことを悪く思っているだろうと、まいは想像するのですが、
おばあちゃんが亡くなったとき、
ゲンジさんは、銀竜草(ギンリョウソウ)という花を持ってきて、
おばあちゃんのために涙を流すのです。
ゲンジさんは、おばあちゃんに手向ける花は、
銀竜草が相応しいと考えたのだと思います。

ginryuusou


この作品の中で、銀竜草は、
既に亡くなっているおじいちゃんが好きだった植物で、
おじいちゃんの魂の象徴のように描かれている植物です。
そして、この銀竜草は、葉緑素を持たず、日光を必要としない植物で、
暗闇の中で育ち花を咲かせることができるのです。
そして、暗闇の中で白く輝く銀竜草は、
絶望の中の希望を象徴しているようにも感じます。

ゲンジさんはおじいちゃんのことが好きで、
おじいちゃんも生前、ゲンジさんを可愛がっていたということから、
ゲンジさんに銀竜草のある場所を教え、
銀竜草のことについて話していたのだと考えられます。
出来の悪い自分を可愛がってくれていた人の奥さんで、
しかも、自分を印象だけで判断しない人を、
ゲンジさんが悪く思うわけがないのです。

ゲンジさんの印象が悪いということは、
おばあちゃんにも、当然 解っていたと思いますが、
ゲンジさんがおじいちゃんを好きだったということもあって、
ゲンジさんの本当の人間性などの、
印象以外の部分についての知識もあるわけです。
また、ゲンジさんに対するその様な、公正な態度というのは、
特に何も悪いことをしていなくても、怪しいと疑われれば、
火あぶりによって処刑されたというような、
魔女の歴史というのも関係しているのかもしれません。

まいがおばあちゃんの所を去る日の前日に、
山の中で足を滑らせたことから、
偶然に、この銀竜草を見つけて、新種の植物かもしれないと思い、
おばあちゃんのところ持っていく場面があるのですが、
まいはその時、見えない何かの存在を感じています。
そして、どうやらこれは、おじいちゃんの魂のしわざのようで、
まいが将来的に、ゲンジさんの存在を許すことができるようになるための、
布石のようなものではないかと考えられます。

まいは小さい頃、お父さんから、
「人は死んだら、最後の最後で、何もわからなくなり、
自分というものも無くなり、もう何も無くなる」
ということを教えられて、そのことでずっと悩み、苦しんできたのですが、
おばあちゃんは、自分が死んだ後に、まいにしか証明にならない仕方で、
生前の約束どおり、魂の存在を証明してみせます。
このことによって、まいは、その長年の苦しみから救われたと思いますし、
同時に、自分の経験によって知ることの大切さや力強さ、
「事実を知る」とこと「信じる」こととの違いを知ったのではないでしょうか。

しかし、これは、まいにとっては確かな証拠、紛れもない事実そのものなのですが、
他の人には、何の証拠にもならないというのが面白いところで、
スピリチュアルな事象を扱うときに、よく遭遇する現象でもあります。
経験というのは個人的なものなので、ある人には明らかな事実であることでも、
他の人には「信じない自由」というものが与えられているのだと思います。

そして、まいは、おばあちゃんのところを去った後も、
それがおばあちゃんとのつながりを保つ方法だと感じて、
魔女修行をずっと続けてきたお陰か、この頃になると、
一般的に魔女という言葉から想像されるようなものではありませんが、
「魔女的な何か」が芽生えてきており、
勘の良い、まいの友人にも、それを感づかれています。
これは、自分の決めたことを粘り強くやり遂げる力、そして、
一見、それと矛盾するように見える、我を通すこととの放棄にも繋がると思いますが、
自分の意識が意図することができなくなることにより、結果的に、
自分の魂が望むことが実現するという、奇妙なめぐり合わせのようなものです。
そして、この魔女的な何かというのも、人から見れば、
単なる偶然にしか見えないようなものであるのも面白いところです。




映画 『西の魔女が死んだ』の主題歌、『虹』 です。
Korva の大好きな曲です。
歌は手嶌葵さん本人によるものではなく、他の方のカバーです。



こちらは、2008年に公開された映画の予告編です。
映画の方はまだ見ていませんが、機会があれば見てみたいです。



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スピリチュアル | 11:11:11 | トラックバック(0) | コメント(9)
わが家の金魚たち
1ヶ月ほど前から、金魚を2匹 飼い始めました。

tank20180502


水槽は、10年以上前に買った、テトラの「メダカ飼育セット」です。
このセットは、今も販売されていますが、
外掛けフィルターがモデル・チェンジしています。
この外掛けフィルターは、改造して使っていますが、
今のところ上手く機能しているようで、水はピカピカです。

このメダカ飼育セットは、
妻とお弁当を持って、「里川」という川を見に行ったとき、
妻が「メダカの稚魚がいる」と言って掬った魚を飼う為に、
急遽 購入したものだと記憶しています。

しかし、この稚魚たちは、実はメダカではなく、
ウグイか何かだったのですが、1匹を残して、すぐに死んでしまいました。
最後の1匹は、メダカの餌を食べながら、結構 長く生きて、
私たちを楽しませてくれたのですが、
3cmくらいに育った頃、蓋とフィルターの隙間から飛び出したのか、
水槽の横で干からびて死んでいるのを発見しました。
ウグイのような活発な魚を、この小さい水槽で飼うのは、
無理があったのでしょうか・・・

tank20180502b


水槽の後ろに外掛けフィルターがあるので見にくいですが、
水槽内のレイアウトです。
金魚の隠れ家と、人工の水草と人工の流木が置いてあります。

wakin20180502


金魚たちは、いつもは活発に泳ぎまわっていますが、
撮影しようとすると、なぜか隠れて出てきてくれません。

金魚の種類は、普通の「和金」です。
よく大型魚の餌として売られているような、
いわゆる「小赤」という金魚なので、
興味を引くような、美しい柄のようなものはありませんが、
いつも見ていると、個体差も判別できるようになりますし、
段々と愛着が湧いてきて、可愛く思えてきます。

Korva の好きな「星の王子さま」にも、
同じようなことが書かれていますが、
「価値のあるものが大切なのではなく、
 大切にするものが価値のあるものになる」 のだと思います。
一般的には、ほとんど価値の無いものが、
共に時間をすごしたり、手間をかけて面倒を見たりしているうちに、
自分にとって、かけがえの無いものになっていく過程というものが、
Korva はなんとも言えずに好きなのです。

minishikuramen20280502


これは3年ほど前に、100円ショップのダイソーで買った ミニ・シクラメン です。
最初は本当に小さな株でしたが、今は大きく育ち、沢山の花を咲かせて、
目を楽しませてくれるようになりました。



アクアリウム | 10:58:21 | トラックバック(0) | コメント(12)
イラストを描いていただきました
ブロ友の ponch さんが、
お友達紹介として、Korva と妻のイラストを描いてくださいました^^

ponchsan2


黒猫が Korva で、横の アメリカン・ショートヘア が妻ということです。
Korva は、自分のアイコンとして黒猫を使っているので、
イラスト化すると、普通に黒猫になると思いますが、
妻は昔、斉藤由貴に似ていて、一時 太っていた頃は、
「ほんまもん」というNHKのドラマをやっていた頃の池脇千鶴に似ていたので、
確かに妻を猫化すると、雰囲気的に、
なんとなく アメリカン・ショートヘア だという感じもします。
Wikipedia の アメリカン・ショートヘア の説明を読んで、
「容易に太り過ぎる傾向がある」という部分に、
少し「ふふっ」となりました。

そして、妻の退院祝いとして、もう一枚 描いてくださいました。
年末の忙しい時期に、本当に ありがとうございます <(_ _)>
ponch さんの優しさが心に沁みます・・・
妻も喜んでいます。
こちらの絵では、シロツメクサの首飾りをつけてもらっていますね。

ponchsan1


ブログのジャンルは違うのですが、
ponch さんとは、結構 長いブロ友で、
最初は ponch さんのブログで、
Korva の好きな漫画の記事にコメントしたのが
きっかけだったように記憶していますが、
それ以来、ponch さんの鋭い洞察と考察が面白くて、
ずっとブログを拝見しています。
これからも、ponch さんのブログ を楽しみにしております ^^


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